罪赦された者らしく

メッセージ

<サムエル記第2 12章1~14節>
牧師:砂山 智

開会聖句

しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか。

<サムエル記第2 12章23節前半>

メッセージ内容

Youtube動画

公開が遅れて申し訳ありません。
メッセージ動画公開:10/11 PM 5:12

メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>  
「好事魔多し」という諺があります。また、「月に叢雲花に嵐」とも言いますが、今朝のダビデには、まさにそんな言葉がピッタリくるのではないでしょうか。先週、お話ししたように、三度の油注ぎを経て全イスラエルの王となったダビデは、まさに順風満帆、アンモン人との戦いにも楽勝ムードが漂い、ダビデ自身は戦場にも赴かずにエルサレムの王宮にとどまっていました。その時、「まさか」の坂を下ることになるのです。

<本論>
1.ダビデの罪

もう、その「まさか」については、ここにおられる皆さんはよくご存じかと思いますが、11章2節からご覧ください。

『ある夕暮れ時、ダビデが床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、一人の女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。ダビデは人を送ってその女について調べさせたところ、「あれはヒッタイト人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバです」との報告を受けた。ダビデは使いの者を送って、その女を召し入れた。彼女が彼のところに来たので、彼は彼女と寝た―彼女は月のものの汚れから身を聖別していた―それから彼女は自分の家に帰った。女は身ごもった。それで彼女はダビデに人を送って告げた。「私は子を宿しました。」』(Ⅱサム11:2~5)。

ダビデは自分の悪事を隠すために謀略を巡らします。しかし、それが上手くいかないと見るや、更に悪事を重ね、兵士としての職務に忠実なウリヤを故意に危険な前線に送り込んで死に至らしめるのです。本当に極悪としか表現のしようのないダビデの罪なんですけれども、もし自分がダビデと同じ立場だったら、全イスラエルの王となって悠然と王宮の屋上を歩いているときに美女が入浴している姿を見たらどうだっただろうなー、とも思ってしまいます。自分は決してダビデのように罪は犯さなかった、と言い切る自信はありません。「久米仙人」じゃないですが、もしかしたら、バテ・シェバの入浴シーンを見て、目がくらんで屋上から転落していたかもしれません…。
「サムエル記」の著者は、この最悪の11章を終わるにあたって、次のようなことばで結んでいます。

『しかし、ダビデが行ったことは主のみこころを損なった』(同11:27b)。

別の訳では、『しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた』とあります。ダビデ自身は、万事うまくいった、うまく隠しおおすことができたと思っていたかもしれません。ただ、芸能界の不倫ネタではないですが、こういう話はすぐに広まってしまいますよね。ダビデの側近くで仕えていた人たちも恐らく気づいていたのではないでしょうか。ただ、気づいていたとしても、最高権力者となったダビデに物申すということは、なかなかできることではありません。政治の世界でよく使われる「忖度」ということばを思い出しますが、ダビデ自身も、「この俺様に意見できる奴などいるはずがない」と高をくくっていたのかもしれません。しかし、人の目は欺けても神の目を欺くことはできません。主はナタンをダビデのところに遣わし、その罪を指摘させるのです。

2.あなたがその男です

彼は一つの話を聞かせることによって、見事にというか、これ以上ないというほど鮮やかにその罪を指摘します。「あなたがその男です」というナタンの一言は、まるで時代劇の決め台詞のようで、本当に何度読んでも胸のすく思いがします。私は、いつもこの場面に来ると、効果音が聞こえてくるというか、「てめーら人間じゃあねえや!叩っ斬ってやる!」という破れ傘刀舟の名台詞を思い出してしまうんですが…。
この時、ナタンを抹殺してしまおうと思えばできたと思いますが、ダビデはそうはしませんでした。彼は直ぐに自分の罪を認め、悔い改めたのです。

『ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」』(Ⅱサム12:13)。

時々、テレビなどで「謝罪会見」というのを見ます。その理由というか、経緯は様々なんですが、だいたい墓穴を掘るパターンは決まっていますよね。私も、うまく対応できるかと問われれば、全く自信はないんですが、余計なことをつい口走ってしまったり、逆切れというか、ことばの端々に「なんで自分が?」という不満な思い、怒りが見え隠れしたり。しかし、ダビデの悔い改めのことばは実に簡潔・シンプルでした。ある方は、「私たちにとって大事なことは罪を犯さないことよりも、罪に対して素直であることである。なぜなら、誰も神の前に自らを罪なしと言い得る存在とはなり得ないからである」と書いておられました。ダビデがサウルよりも、或いは、後の時代のヘロデよりも優れていると言われる所以は、そういうところにあったのでしょう。

<結論>

今朝の開会聖句は、主がナタンを通して宣告された裁きの結末です。ダビデは、バテ・シェバとの間に生まれた子どもが病に取りつかれたとき、断食をして、一晩中、地に伏し、その子の癒しを神に願い求めます。しかし、その願いも空しく、七日目にその子は死んでしまいます。家来たちはそのことをダビデに知らせるかどうか迷います。何か自分たちにまでとばっちりが来るんじゃないかと恐れたんですね。しかし、ダビデはそのことを知るや、

『ダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて主の家に入り、礼拝をした。そして自分の家に帰り、食事の用意をさせて食事をとった』(Ⅱサム12:20)。

家来たちは彼のこの行動を不審に思い、尋ねます。その問いへの答えが、今朝の開会聖句です。ある方は、愛しいわが子が死んだというのに、なんと非情な態度か、と思われたかもしれません。まして、その死の原因はダビデ自身にあったわけですから。しかし、もう主の裁きは下され、ダビデは自分の罪に対する罰を受け取ったのです。それは自分自身の死ではなく、愛するわが子の死、ある意味、身代わりの死でありましたが。
私たちは、イエス様の十字架が、この私の罪のためであったということを信じています。神のひとり子が十字架にかけられ殺されるという、本当にあり得ないような理不尽な犠牲によって自分の罪は赦されたと。しかし、そのようにまでして罪赦されたのに、どうでしょうか?今なお、過去のことを悔い、将来の不安に怯え、びくびくしながら心穏やかでない毎日を送ってはいないでしょうか。先日読んだ三浦綾子さんの本に、「今よりのちは、神の領分である」ということばがありました。この三浦さんの言う「今」とは、罪赦された、今のことですよね。今週も、お互い、色々あると思いますが、神様にお委ねし、罪赦された者らしく歩んで行きたいですね。

メッセージ内容のダウンロード(PDF98KB)

新聖歌

開会祈祷後:191番、メッセージ後:222番

聖書交読

詩編119篇 1~16節

2022年教会行事

10月12日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2837

Comments are closed