北風と太陽

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<コリント人への手紙 第1 8章1~9節>
牧師:砂山 智

開会聖句

市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。

<コリント人への手紙 第1 10章25節>

メッセージ内容

Youtube動画

動画公開をいましばらくお待ちください。

 
 

 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>  
・パウロは、この手紙の5章の初めから15章の終わりまで、当時のコリント教会にあった多くの具体的な問題について自らの意見を述べ、悔改めと和解を促します。特に今朝の8章、そして9章、10章では、偶像に献げられた肉の問題を通して、知識と愛の関係について。さらに、キリスト者はどのように自由を用いるべきかについて教えています。

<本論>
1.知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てる

「地図で学ぶ聖書の歴史」という本に当時のコリントの町の平面図が載っていました。その平面図の真ん中の上の方に肉の市場というのがあって、そこで偶像に献げた肉が売られていたと思われます。日本にも、お仏壇にお供えをするという風習(信仰)があります。それと同じように、古代のコリントの人たちにとって、神々に供え物をすることは、とても大切なことだったのですが、それには本音と建前みたいなものがあって、それは、供え物のお下がりをどうするかということと関係がありました。まず、祭壇には形式的に小さな肉だけが献げられます。そして、あばらとももの肉と顔の半分は祭司が当然の権利として受け取りました。その後、供え物を献げた人自身が残りの肉をもらい、その肉は結婚披露宴のような祝宴でよく振舞われたそうです。これらは、言わば私的な供え物の場合の話ですが、それとは別に公の供え物というのもあったそうで、その場合には、献げた肉のほとんどは祭司と役人とで山分けされ、食べ切れない分は肉の市場に払い下げられたそうです。このようなことは旧約時代のイスラエルでもよく見られたことですが、ただ、コリントの肉の市場では普通に処理された肉も売られていたので、コリント教会の人の中には気にする人もいたんですね。それは、もし、市場で買った肉が偶像に献げられた肉で、それを知らずに食べてしまったなら、その肉に乗り移った偶像(悪い神)から恐ろしい祟りがあると心配する人がいたということです。そのことに対するパウロの答えは、今朝の4節、さらに、開会聖句の通りなのですが、パウロは、それで「この問題は、はい、御終い!」とはせずに、コリントの人たちに、知識と愛との差と言うか、その関係を説いたのです。それは1節にあったように、知識は人を驕り高ぶらせるけれども、愛は人の徳を高めるということです。パウロ自身は、市場で売っている肉のことなど気にする必要はないということは百も承知でしたが、彼はむしろ、弱い人、ある意味、感情に流されやすいと言うか、迷信に惑わされてしまいやすい人の立場に立って論じたのです。

2.食物は大切だけれども

それは、今朝の最後の8節と9節にある通りです。

『しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません』(Ⅰコリ8:8)。

このみことばは、イエス様が言われた、

「外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます」(マル7:18~19)

ということばを思い起こさせます。日本にも、少し前から多くの外国人の方が住むようになりました。彼らが信じるイスラム教、ヒンズー教、そしてユダヤ教もそうですが、食物についての様々なタブーがあります。それ自体は、信仰上のこととして尊重すべきであり、決して馬鹿にしたり無視してはいけないのは当然のことなのですが、私たちの信仰は、この8節に書かれてある通りです。ですから私たちは、豚肉も牛肉もタコもイカも、神が与えてくださった物として感謝して、おいしくいただくわけです。ただ、食物についてはそうですが、日本の、特に「福音派」と呼ばれる教会には、お酒や煙草について嫌悪すると言うか、タブー視する方もおられます。それらは食物ではなく嗜好品と呼ばれたりしますが、酒を飲まない、煙草を吸わないことが一枚看板のように、それが敬虔なクリスチャンのしるしみたいに思っている人もいるようです。しかし、それらの物も、健康上の問題は別として、やっぱり、飲んでも、飲まなくても、信仰上は損にならないし、得にもならない。つまり、私たちの信仰とは、直接、関係のない物だと思うのです。ただ、それと同時に、私たちが心に留めておかなければならないことがあります。それが9節です。

『ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい』(同8:9)。

榎本先生の本に、あるキリスト教主義の学校で話をした時のことが載っていました。生徒の中に、キリスト教がどうしても嫌いだと言う人がいたので、理由を尋ねると、その生徒は、クリスチャンの生活、そして学校でのクリスチャンの先生やクリスチャンの友達の毎日の姿、それを見るたびに嫌になる。絶対に教会など行くまいと思う、と答えたそうです。榎本先生はその後で、このような人が多いのは事実である。そして、私たちは気をつけなければならないのである。「その人の近所の人が信者になってくる人は本物だ」と言う人がいる。私たちは、毎日の生活で身近な人たちをつまずかせてはならないのである、と書いておられました。

<結論>

<結論>
今朝のタイトル「北風と太陽」は、皆さんもよくご存じの有名なイソップ寓話から採りました。その話に出てくる北風が、今朝のパウロの言う知識で、太陽が愛のように思えたので、そのようなタイトルにしたのですが、今、政治の世界で、「国旗損壊罪」なるものが議論されています。国旗を大切にすること=国を愛することだと言いたいのでしょうが、自分の国を愛することは法律で強制されるべきことなのか。否、そもそも、政治家の仕事は、できるだけ多くの人たちに愛されるような国を作ることではないのかと、とても疑問に感じます。そして、今朝の聖書もそうでしたが、パウロの時代のコリント教会にも実に様々な問題がありました。ただ、今の私たちは、もっと様々で複雑で微妙な問題に直面しています。LGBTQの問題しかり。それらのほとんどは、私たちの知識や正論だけで解決できるような問題ではありません。だから、私たちは、聖書の教えに忠実であると同時に、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなければならないのではないでしょうか。それは私たちにとって本当に難しいことなのですが。

メッセージ内容のダウンロード(PDF92KB)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌141番、メッセージ後:新聖歌474番

聖書交読

詩編19篇 1~14節

2026年教会行事

6月17日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時

#58-3029

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