タラントのたとえ

メッセージ

<マタイの福音書 25章14~30節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

<マタイの福音書 6章10節>

メッセージ内容

<序論>  
・『タラント』とは、ギリシアの通貨の単位(元は金や銀の重さの単位)です。一タラント=六千デナリで、一デナリは当時の一日分の賃金と言われていますので、一タラントは六千日分(約十六年半)の賃金ということになります。仮に一日の賃金を一万円と仮定すると、一タラントは六千万円ということですね。ですから、このたとえの主人は、『おまえはわずかな物に忠実だったから』と言っていますが、しもべに預けられたお金は、決して、わずかな物ではなかったということが分かります。また、『タラント』は、英語の「タレント」(才能や技能という意味)の語源でもあります。

<本論>
1、五タラント、二タラント、一タラント

「マタイの福音書」には多くのたとえが記されていますが、今日のたとえは、私自身、特に思い入れの強いと言いますか、強く印象に残っているたとえです。それは、今から15年程前、献身の思いが与えられた時に、心に示されたみことばの一つだからです。イエス様は『天の御国は~のようです。』といういつものことばで、このたとえを語り始められますが、その焦点は、主人が帰って来て、しもべたちと清算をするという、つまり、ご自身の再臨の時、世が終わる時に起こることに当てられています。(マタイ24,25章全体がそうですが)。そして、同じ福音書でも、「ルカの福音書」には、よく似た話が記されています。

『イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、『この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません』と伝えた。さて、彼は王位を授かって帰って来ると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じた。彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思ったのである。最初のしもべが進み出て言った。『ご主人様。あなた様の一ミナで十ミナをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』二番目のしもべが来て言った。『ご主人様。あなた様の一ミナで五ミナをもうけました。』主人は彼にも言った。『おまえも五つの町を治めなさい。』また別のしもべが来て言った。『ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。』主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はおまえのことばによって、おまえをさばこう。おまえは、私が厳しい人間で、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取ると、分かっていたというのか。それなら、どうして私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうしておけば、私は帰って来たとき、それを利息と一緒に受け取れたのに。』そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナをこの者から取り上げて、十ミナ持っている者に与えなさい。』すると彼らは、『ご主人様。あの人はすでに十ミナ持っています』と言った。彼は言った。『おまえたちに言うが、だれでも持っている者はさらに与えられ、持っていない者からは、持っている物までも取り上げられるのだ。またさらに、私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。』」』(ルカ19:12~27)。

マタイと、どこが違っていたでしょうか?預けられた金額もそうですが(一タラント=六十ミナで、一ミナ=百デナリですので、一ミナは百万円くらい?)、ルカでは、マタイと違って、十人のしもべに、それぞれ同じ金額(一ミナ)が預けられました。このことから、マタイは、私たち人間の能力や賜物、或いは信仰もそうなのかもしれませんが、それらのものには人によって違いや差というものがある。しかし、それが大きかろうが小さかろうが、神様はその成果ではなくて、それぞれが自分に与えられた能力や賜物、信仰を十分に用いたかどうかを見ておられる、ということを伝えたかったのかなとも感じます。ただ、福音書には多くのたとえが出てきますが、それらのたとえを理解する上で、私たちが気をつけなければならない大切なことがあります。それは、「木を見て森を見ず」ということばがあるように、余り小さなこと、違いにこだわらないということです。小さなことにこだわってしまうと、イエス様がそのたとえ全体を通して一番伝えたかったこと、核心部分がぼやけてしまうのです。ということで、今日は、この二つのたとえの違いではなくて、共通点を探りながら、その大切な核心部分を見てゆきたいと思っています。

2、預かり物

まず、第一の共通点、注目したい点は、マタイもルカも、しもべが預かったお金は主人のお金であって、しもべ自身のものではなかったということです。そのお金は、あくまでも主人から預かった預かり物であるということですね。私たちには、自分の能力や賜物、信仰や生命までもが、自分自身のものであると思い込みやすいところがあると思います。しかし、そうではなくて、それらのものは、神様から預けられた預かり物である、と聖書は言っているのです。ですから、私たちは、たとえそれが、人と違っていたとしても、決して卑下する必要はないし、逆に思い上がる必要もないのです。また、別の言い方をすれば、それらのものは、自分自身の責任ではなくて、神様の責任によって預けられたものですから、そんなことまで私たちが自分で背負い込んで、何か、自分の責任であるかのように思い悩む必要もない、ということではないでしょうか。以前、ある本を読んでいて、そんな一文に出会った記憶があります。私たちの人生は、意外と、自分の責任ではないことによって左右される場合が多い。そして、そのことで思い悩み、苦しんでいる人が実に多い、とその本には書いてありました。確かに、そうかもしれません。自分ではどうすることもできないこと、変えることのできないことを、いつまでも、くよくよと悩み、受け入れることができない。そして、その一方で、変えることのできることには、勇気を出して取り組もうとしない。
以下にご紹介するのは、ラインホルド・ニーバーという神学者が残した「平安(平和)の祈り」の冒頭のことばです。

「神よ、変えることのできないことを受け入れる平静な心を、変えることのできることを変える勇気をお与えください。そしてそれらを区別する英知をお与えください。」

<結論>
そして、もう一つ、この二つのたとえには、見落としてはならない大切な共通点があります。それは、信仰や生命、或いは、能力や賜物という大切な財産を預けられた私たちは、それを預けてくださった方の意志、つまり、神様の意志に従ってそれらを用いるようにと委ねられているということです。私たちの信仰も、私たちは、この自分が、信じているんだ、と思ってしまいやすい者ですが、そうではなくて、この信仰も、与えられたものだから、それを与えてくださった神様の意志に従って用いなければならない。この生命や健康も、神様が預けてくださっているのだから、その生命や健康に感謝して、精一杯用いていかなければならないということではないかと思います。
私たち人間は、どんなにあと一日生きたいと願ったとしても、死んでゆかなければならない時もあります。

『あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。』(マタイ6:27)

と、イエス様は言われましたが、本当にその通りですね。自分が死ぬ時も、イエス様の再臨の時と同じで、いつやって来るのかは分かりません。私たちは、今日のたとえにあったように、失敗を恐れ、神の裁きを恐れて、預かった一タラントを地の中に隠してしまったしもべのようであってはならないと思います。そうではなくて、大切な一タラントを預けてくださった主人の意志、神様の意志を汲んで、その意志に応えていこうとする者でありたいと願います。
最後に、先程ご紹介したラインホルド・ニーバーの「平安(平和)の祈り」の続きをお読みして、今日の説教を閉じたいと思います。

「一日一日を大切に生き、一瞬一瞬を楽しみ、困難を平和への道として受け入れ、この罪深い世界を、私が求めるようにではなく、主がその現実を受け止められたように、受け止めさせてください。
もし私が主のみ旨にゆだねるなら、主はすべてのことを良きにしたもうことを信じつつ、 私がこの世で、それなりに幸せに暮らし、来るべき世においては、永遠に主と共に生き、 最高に幸せな者となることができますように。アーメン。」

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新聖歌

開会祈祷後:38番、
メッセージ後:340番

聖書交読

詩篇 130篇 1~8節

2019年教会行事

4月10日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#51-2654

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