復活の朝

メッセージ

<マタイの福音書 28章1~10節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。

<イザヤ書 52章7節>

メッセージ内容


<序論>  
・イースター、おめでとうございます。マタイ最終章は復活の章です。イエス・キリストが十字架につけられたのは金曜日でした。マルコ15章には午前9時頃とあります。そして、その6時間後、つまり、午後3時頃に亡くなられたと記されています。イスラエルでは、日没から次の日の日没までが一日とされていますので、「安息日」は、金曜日の日没から土曜日の日没まででした。ですから、イエス様は、「安息日」が始まる直前に亡くなり、墓に埋葬されたことになります。「安息日」というのは、ユダヤ人にとって最も大切な日であり、一切の労働が禁じられていました。それは、私たち日本人には理解しがたいものですが、マグダラのマリアともう一人のマリアは、その律法を厳格に守り、「安息日」(土曜日)の翌日の明け方、つまり、日曜日の明け方を待って、イエス様の墓を見に来たのです。

<本論>
1、石は転がされていた

マタイは、四つの福音書の中では、比較的、復活の記事については簡潔に記しています。並行記事の「マルコの福音書」16章1,2節には、次のように記されていました。

『さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った』(マルコ16:1,2)。

マグダラのマリアたちは、安息日が終わった土曜日の夜の僅かの時間に香料を買いに行き、日曜日の朝早くにイエス様の墓に出かけて行ったのです。今とは違って、当時のイスラエルでは、女性が、夜、外出をするということは余りなかった(殆どなかった?)だろうと考えますと、彼女たちが、どれほどイエス様のことを大切に思い、安息日が明けるのを心待ちにしていたのかということが分かると思います。しかし、彼女たちには大きな懸念がありました。それは、墓の入り口を塞いでいたあの大きな石と、番兵たちでした。普通に考えると、行くだけ無駄なように思えます。それでも、彼女たちは、出かけて行きました。それは、何か予感がしたのか。それとも、イエス様が生前に言われていたことを思い出したのか・・・。それは分かりませんが、とにかく彼女たちは、イエス様を愛するがゆえに、行動を起こしたのです。その時、驚くべきことが起こります。これは、四つの福音書の中でも、マタイだけが記していることです。

『すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。』(マタイ28:2)。

私たちは、何かをしようと思うけれども、あの石があるからできません、と言うことが多いように思います。いつも、自分自身の限界の中で、すべての事を考えようとしてしまいがちです。しかし、マグダラのマリアたちがそうであったように、イエス様を愛するがゆえに行動を起こそうとする時、神様は、その妨げの石をわきへと転がしてくださるのではないでしょうか。私たちにとって必要なのは、完全な信仰とかではなく、たとえ確信は無かったとしても、真心からイエス様の愛に応えていこうとする信仰ではないかと思います。その時、私たちは、神様のなさるわざを見るのです。

2、見ないで信じる人の幸い

さて、マタイの描写によると、その姿は稲妻のようで、雪のように白い衣を着た御使いは、驚いている彼女たちに向かって言います。

『「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられのです。さあ、納められていた場所を見なさい。』(同28:5,6)。

イエス・キリストご自身が、前から言っておられたとおり、よみがえられたのだ。今、空っぽの墓を見なさい、ということですね。マグダラのマリアたちは、弟子たちと同じように、生前のイエス様から直接聞いていたと思います。よみがえるということを。しかし、先程も申し上げましたように、イエス様のことを心の底から愛していた彼女たちであっても、この時までは、その意味を理解していなかったし、信じてもいなかったのです。
「ヨハネの福音書」20章に、復活されたイエス様が、信じようとしない弟子のトマスに現れた場面が記されています。(21章は後代の付加と言われている)。
トマスのことを疑り深い性格であったように思っておられる方もいるかもしれません。しかし、果たしてそうだったのでしょうか?彼は、復活のキリストが弟子たちの前に顕れた時、なぜか、その場にいなかったのですが、それはたまたまであったのかもしれません。少なくとも、ヨハネの記述を読む限りでは、そのことについての特別な理由を見出すことはできないと思います。私は、ヨハネ20章25節にある

「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を差し入れ、その脇腹に手を入れなければ、決して信じません。」

という彼の言葉を読むと、彼が疑り深い人であったというよりも、何か、たまたまその時にいなかった自分の不幸を嘆くと言いますか、「なぜ、イエス様は、よりにもよって、俺がいない時に顕れたんだ!」という、自分の人生に起こった不運に対して納得がいかない、憤っているように感じるのです。しかし、そんなトマスにも、イエス様は、八日後になって姿を顕してくださいました(ヨハネ20:26)。それも、前回、彼が不在中にされたのとまるっきり同じことを、トマス一人のために、繰り返し、してくださったのです。

『「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』(ヨハネ20:27b)。

そして、

『「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです』(同20:29b)。

ある方は、この見ないで信じる人の幸いということについて、次のように書いておられました。
それは、時に、人生の不運に遭遇せざるをえない私たちが、自分の人生を否定しないで、肯定し、どんな運命にある自分をも受け入れ、自分自身を好きになって生きていくこと。その幸いのことであると。私は、なるほどなぁ、と思わされました。
あのマグダラのマリアたちも、このトマスも、復活のイエス様をその目で見、初めて、見ないで信じる人の幸いということに気づかされたのではないでしょうか。イエス様は、私たちはそのような者であるということを、よくご存じなんですね。

<結論>
さて、今日のテキストのマタイに戻りたいと思いますが、7節をご覧ください。

『そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」』(マタイ28:7)。

確かに、同じマタイの26章32節を見ると、イエス様ご自身が、弟子たちに言っておられます。

『しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」』(同26:32)。

そのおことばの通りに、イエスは故郷のガリラヤに行かれる、そして、そこでイエスにお会いすることができるということですね。彼女たちの喜びは、どれほどのものだったでしょうか。「あのイエスさまにお会いできるんだ!」「自分たちが心から愛した、あのイエスさまはよみがえられたんだ!」。御使いは、そのことを、急いでお弟子たちに知らせなさいと命じていますが、「善は急げ」と言うように、彼女たちは、そんなことを言われなかったとしても、この喜びを、一刻も早く弟子たちに知らせたいと思ったことでしょう。
そして、今朝のメッセージの最後に、皆さんと共に覚えたいことは、イエス・キリストの福音を伝えるということは、この喜びを伝えるということだということです。9節には、

『すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。』(同28:9)

とありました。皆さんの聖書には、この「おはよう」ということばに※があって、脚注に、別訳「喜びがあるように」と書かれていると思います。この「おはよう(カイレテ)」というギリシャ語は、直訳すると「(あなたがたは)喜びなさい」という意味なんです。復活の主に出会った彼女たちは、その喜びを、神の救いのみわざを知らせるために、お弟子たちの下へと急ぎました。そうですね。福音をお伝えするということは、キリスト教の教理をお伝えすることではありません。復活の主に出会って救われた喜びを、そして、見ないで信じる者とされた私の幸いをお伝えすることなのです。

『良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。』(イザヤ52:7)。

祈りましょう。

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新聖歌

開会祈祷後:123番、
メッセージ後:129番

聖書交読

詩篇 136篇 1~9節

2019年教会行事

4月24日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#51-2656

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