地の上で平和が [家庭礼拝対応版]

コロナの感染拡大が続いていますが、千里教会では 3 密を避けるため、当面の間 2 階の礼拝堂で短時間の礼拝を行うこととします。
高齢の方、体調のすぐれない方、ご不安な方は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。

メッセージ

<歴代誌 第2 30章10~20節>
牧師:砂山 智

開会聖句

いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。

<ルカの福音書 2章14節>

メッセージ内容

Youtube動画


メッセージ動画公開:12/6 AM 11:32

メッセージ原稿は、家庭礼拝用として事前公開します。

 
<序論>  

・南ユダの歴史には20人の王が登場しますが、「Ⅱ歴代誌」が特に多くの頁を割いているのは5人の王についてです。それは、アサ、ヨシャファテ、ヨアシュ、ヒゼキヤ、そしてヨシヤなんですが、前回はヨアシュ王を取り上げました。そして今回はヒゼキヤ王に注目したいと思っています。

<本論>
1、原点に立ち返ったヒゼキヤ

今年の8月頃に「イザヤ書」からお話ししましたが、その時にもヒゼキヤ王について三度ほど取り上げました。もちろん、今日とは全く別の話でしたが、今日の箇所には、彼が、ソロモン王以来、長らく行われていなかった過越の祭りを復活させたことが書かれています。ヒゼキヤの父は悪王と言われたアハズでしたが、ヒゼキヤは紀元前715年に25歳で王になると、まず、いの一番に、荒れ果てた主の宮(ソロモンの神殿)を修復することから始めます。

『彼はその治世の第一年の第一の月に、主の宮の戸を開いてこれらを修理した』(Ⅱ歴代29:3)。

そして、父の時代にあった偶像を取り除き、すべての民に感謝のささげ物を献げるように命じます。既に、北イスラエルは、その6年程前にアッシリアによって滅ぼされ、南ユダにもその脅威は迫っていました。と言うか、この頃の南ユダは、言わば、アッシリアの属国状態にあったようです。ですから、当然のようにアッシリアから異教的な文化や偶像が入り込んでいたものと思われます。ヒゼキヤ王も、即位した当初は、やむなく親アッシリアの姿勢を見せていたようですが、そのような中で、彼はまず、自分たちの原点に立ち返ると言うか、イスラエル民族のアイデンティティを取り戻すことから始めたんです。

2、ヒゼキヤからの急使

そして、今日の30章1節には、ヒゼキヤが、その修復されたエルサレム神殿で200年以上途絶えていた過越の祭りを行うので、皆、集まるようにという使いを送り、ま
た、エフライムとマナセ(北イスラエルの残留民)には手紙を書いて呼びかけた、と記されています。先程も申し上げましたように、既に北イスラエルは国としては滅びていました。アッシリアは北イスラエルの指導者たちを捕囚として連れて行きましたが、その数は全人口の20分の1程度であったと言われています。ですから、大部分の人たちは残されたんですね。彼らは、精神的にも肉体的にも、まさに羊飼いのいない羊のような状態にあったと思われます。そんな彼らに向かってヒゼキヤ王は、「あなたがたもエルサレムの神殿に来て、私たちとともに過越の祭りを祝おう!」と呼びかけたのです。もちろん、そこには政治的な意図もあったかもしれませんが、ヒゼキヤ王の同胞への熱い思いは6~9節にある急使たちのことばを読めば伝わってきます。9節だけご覧ください。

『もしあなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたの兄弟や子たちは、彼らを捕虜にした人々のあわれみを受け、この地に帰って来るでしょう。あなたがたの神、主は恵み深く、あわれみ深い方であり、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔を背けられることはありません』(Ⅱ歴代30:9)。

その結果はどうだったでしょうか?皆がヒゼキヤの呼びかけに応じたわけではありませんでした。10節には、急使たちを笑いものにして嘲る人々もいた、とあります。しかし、11節。アシェル、マナセ、およびゼブルンの一部の人々は、ヒゼキヤの呼びかけに応えて、へりくだってエルサレムに上って来たんですね。

<結論>
そして彼らも過越の祭りを祝うわけですが、ここで一つの事件が起こります。

『民のうち大勢の者、エフライムとマナセ、イッサカルとゼブルンの多くの者は、身をきよめずに、しかも、記されているのとは異なったやり方で過越のいけにえを食べてしまった』(Ⅱ歴代30:18a)。

つまり、モーセの律法に違反してしまったんです。しかし、

『それでヒゼキヤは彼らのために祈った。「いつくしみ深い主よ。彼らをお赦しください。彼らは聖なるもののきよめの規定どおりにいたしませんでしたが、心を定めて神を、彼らの父祖の神、主を求めています。」主はヒゼキヤの願いを聞き、民を癒された(同30:18b~20)。

イエス様は、取税人や罪人たちとともに食事をしている、と自分を非難するパリサイ人に向かって、次のように言われました。

『『わたしが喜びとするのは真実の愛、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」』(マタイ9:13)。

それは、神が喜びとされるのは、私たちが規定や形式を守ることではない。そうではなくて、私たちの真実の愛、真心から神様にお応えしたいという思いをこそ神は喜ばれるのだ、ということですね。
今年ももうすぐクリスマスがやって来ます。コロナの中、本当に厳しい状況が続いていますが、私たちも、真心から神様にお応えするという、その心を大切にする者でありたいと願います。そして、あのヒゼキヤ王がそうであったように、一人でも多くの同胞、仲間たちとともに、イエス様の御降誕をお祝いしたい、と切に願います。

「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF86KB)

特別讃美

ピアノ演奏:N.T姉
前奏:「今こそ来ませ」(新聖歌66番)、「きよしこの夜」
「神は独り子を」「慈しみ深く」「さやかに星は煌めき」

→このリンクから、本日の演奏をお聴きいただけるページへ移動できます!

新聖歌

メッセージ後:69番

2020年教会行事

12月9日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#52-2740

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