門から入る牧者

メッセージ

<ヨハネの福音書 10章1~18節>
信徒:K

開会聖句

「まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいましょう。」

<詩篇 23篇6節>

メッセージ内容

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 メッセージ原稿を公開しました。 
 

<はじめに>  
羊を数えながら寝ようとする人皆さんは寝つけない夜に羊を数えたことありますか。私は時々やってたのですが、テレビで日本語では無意味なことを知りました。英語の「sheep」は発音が眠りを誘い、「眠る」sleepとも似ています。「ひつじ」の発音はそうでないし、数を数えると、頭を使うので更に逆効果ということでした。昔、日本には羊はいませんでしたが、人々はことばは知っていました。それは干支(未)にあったからです。日本での羊の飼育は明治政府の富国強兵と関係します。政府は軍用毛布の素材の為に、これを広めようとしましたが、失敗しました。同じ頃に日本に入り、一代ブームになったのがキリスト教です。文化人がこぞって聖書を読みました。島崎藤村、芥川龍之介といった明治の文豪の時代です。夏目漱石は「三四郎」という本の中で「迷える羊」ということばを主人公の性格描写に使いました。現在でも「優柔不断、迷いの多い人」を表わすことばとして使われますが、キリスト教の勢いは失速します。受洗したのに離れた人や、聖書を熱心に読み失望した人。聖書は彼らに知らなかった世界を提供したでしょうが、その主張は、人間には牧者が必要だということです。幸いな人生は、良い牧者と出会うことです。イエスさまはご自分を良い牧者だと言われました。偽物の牧者、悪い牧者がいたからです。偽物とは誰のことでしょう?良い牧者とはどんな牧者でしょうか?見ていきましょう。

<本論>
Ⅰ.イエスは神が遣わされた本物の牧者である

10章は、9章の生まれつきの盲人だった人のいやしからの続きです。いやされた人は自分の身に起こった事実を何回も証言するのですが、なかなか信じてもらえません。また、ユダヤ人指導者たちは、その日が安息日だったので、いやしを行った人物を罪人だと決めつけます。しかし、彼はその圧力に負けず、「それは驚きだ。生まれつきの盲人の目をあけるのは、その人が神から遣わされた証拠だ。」と、真っ向から反対意見を述べたため、追放されてしまいます。その後、彼は心の目も開かれ、イエスさまを信じました。一方、指導者たちは「自分たちは見える」と、心の目は閉ざされたままです。今日のたとえは、そんな彼らに語られました。

1~5節を読みます。2節「門から入るのは羊たちの牧者です。」というのは至極当然のことで、門から入らなかったら、どこから?と突っ込みたくなります。3節には、本物の牧者の証拠が3つ挙げられてます。

  1. 「門番が彼のために門を開く」
  2. 「羊たちは彼の声を聞き分ける」
  3. 「牧者は一匹一匹の名前を知っている」。

最近は色々な危険から守られるために、セキュリティということが大変重要視されています。何度か、孫の小学校の急用を頼まれることがありました。校門の出入りは厳重です。あらかじめ、学校から各家庭に配布された身分証明書の提示が必要です。これがあると守衛さんが門を開けてくれます。ないと、1節にあるように「ほかのところを乗り越える」ことになります(不法侵入)。 羊の牧者の場合なら、たぶん早朝に牧者がやって来て、門の入り口で門番といつもの挨拶「おはよう」を交わすでしょう。羊はよく知っているその声を聞き、うれしそうにします。狭い囲いから出て、気持ちのいい散歩と美味しい食事が待っていますから。牧者は一匹一匹の名を呼び、健康チェックをしながら外に出します。もしも、門から入れず、他のところを乗り越えて来た強盗なら、臆病な羊は怯え、逃げ回るでしょう。彼らは脅したり、叩いたり、力ずくで引っ張りだそうとするからです。

このたとえでは、イエスさまは門から入る本物の牧者で、指導者たちは偽物の盗人です。指導者たちにこのたとえが通じないのは、自分たちの姿が見えていないからです。そこでイエスさまは7節「まことにまことに…」と、神さまの前の自分の姿に気づかせようと更に説明をされました。この牧者のたとえは、主にエゼキエル34章を背景に語られていて、そこは神さまが職務放棄した当時の宗教指導者を厳しく非難される場面です。

エゼキエル34:2~5(P1475)「わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒さず、傷ついたものを介抱せず…彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。」

イエスさまの目には、たとえのわからない指導者たちの行いは、34章の指導者たちと同じでした。彼らのしていることは、神さまに託された羊を導き、守るというより、自分たちのために羊を屠り、羊の毛を刈りとることです。続く9~10「それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。…わたしは牧者たちを敵とし…彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。」では、 やがて神さまご自身が、哀れな羊を彼らの手から救い出すことが約束されています。イエスさまは、真実な証言をして追い出された哀れな羊を救い出し、信仰に導かれました。そうすることで、指導者たちは偽物の盗人であって、自分こそが約束の牧者、本物の牧者であることを証しされたのです。

Ⅱ.イエスは羊を豊かに養うためにいのちを捨てる牧者である

イエス様は良い羊飼い次に、良い牧者は羊をどのように世話してくださるのかを話されます。イエスさまは、ヨハネ特有の「わたしは~である」のフレーズを使って、「わたしは門です。」「わたしは良い牧者です。」と言われます。門となって羊たちの出入りを守り、牧草を心ゆくまで食べ、豊かないのちを得るようにしてくださる。豊かとは色々な意味がありますが、ここでは羊が安心して満足いくまで草を食べ、よく休むことですね。たとえ狼が襲って来ることがあっても、雇い人のように羊を置いて逃げたりせず、いのちを捨てても守ってくださる牧者だと言われました。
この牧者と羊の様子を思い浮かべると、詩篇23篇「主は私の牧者です」のダビデが思い出されますが、私にはもう一人思い出す人物がいます。アメリカ人牧師「ウォルター・ワンゲリン」と言う人です。昨年7~9月の「いのちのことば」の巻頭ページ「病とともに生きる」を執筆担当されていましたが、8月に77才で召され、9月号の記事後半は奥様の書かれた文章で締めくくられていました。私はその一年前に出版された彼の自伝「過去から永遠へ」を読んだのですが、彼がイエスさまを心から信じた瞬間の様子が、とても印象的でした。

クリスチャン1世、2世とか聞かれたことあるでしょう。クリスチャンホーム育ちは2世ですね。神さまを信じたときのことは、人様々ですが、2世のある方は「私は信じたとき、青い空を見なかった。」と言われました。「信じたときに世界が変わった、すべてが輝いて見えた。」とかの証を聞くことがありますが、そんな経験はなかったという意味だそうです。ワンゲリンもそうでした。彼は4代続く牧師家庭の出身です。生まれたときから、空気のように、神を信じ、考えることもなく聖職者コースを歩み、その最終段階の修士課程まで進んだあるとき、突然、自分の信仰に疑問を持ったのです。自分は心から神を信じているのか。そんなこと自分で決めていない。 魂の放浪が始まりました。勉強は手につかず、進級も危うい、奨学金ももらえないという瀬戸際に追い詰められていたある日、田舎道を歩いていると、羊の群れが草を食べているところに出くわします。彼には、羊は「主体性がなく、びくびくしていて、愚かな臆病者」に見え、まるで今の自分のようで、ムラムラと怒りがこみ上げました。大声で驚かし、転ばせて、ぶざまな姿を笑ってやりたいと思ったそのとき、茂みから一人の農夫があらわれ、彼が喉をならすと、羊たちはすぐさま向きを変え、群れをなして彼の前から姿を消しました。彼は一人残されたのですが、この牧者(農夫)と羊の光景は彼のたましいを打ち砕きました。そのとき、彼は思わず「羊になりたい」と呟きました。これは彼の心からの祈りでした。「もうどうでもいい。私は守られたい、導かれたい。」と彼は思ったのです。 羊の素直な牧者への信頼を目の当たりにして、先ほどまで、あんなに羊を愚かな奴と馬鹿にしていた彼は、はじめて自分には牧者が必要なこと、良い牧者に飼われることが自分にとって一番の幸いであることを悟ったのです。彼のその後の牧師生活は平坦なものではありませんでしたし、最後は15年間の闘病生活でした。しかし、あの瞬間から、牧者である神さまは、間違いなく彼の信頼に応え、ずっと導いていてくださったと、彼は自伝で証しています。

<終りに>

開会聖句は

詩篇23:6「まことに私のいのちの日のかぎり、恵みといつくしみとが私を追ってくるでしょう。私はいつまでも住まいましょう。」

です。 人生には喜びと苦しみがつきものです。多くのことを経験し、多くのものも与えられます。家族、仕事、健康、お金、友人、生きがいに私たちは支えられています。でも突如失うこともあれば、だんだん失われていくこともあります。しかし、イエスさまに出会い、信頼するなら、「恵みといつくしみ」が必ず追ってくると、みことばは語ります。良い牧者に出会った幸いを、今一度感謝し味わいつつ今週も歩みましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF217KB)

新聖歌

開会祈祷後:9番、メッセージ後:318番

聖書交読

詩編103篇 1~22節

2022年教会行事

6月29日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2822

One comment to this article

  1. mb-senri_web

    on 2022年6月25日 at 4:14 PM -

    今回の2つ目の素材は、聖書からのイラスト素材を提供してくださっている「こひつじイラスト」さんからの可愛らしい素材をお借りしています。心優しいイエスさまの表情に癒されますね!
    https://kohitsuji-illust.com/