神の主権

メッセージ

<エレミヤ書 45章1~5節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

<マタイの福音書 6章33節>

メッセージ内容

<序論>  
・今日のテキストの45章は、「エレミヤ書」では一番短い章です。冒頭に、『ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に』と書かれています。少し前の36章にも、同じ時代背景の説明がありました。これは、エルサレム陥落(紀元前586年)から遡れば十数年前ということになります。また、25章も同じ時代に書かれたもので、その3節には、

『ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。』(エレミヤ25:3)

とあります。エレミヤは、預言者として召しを受けてから23年間語り続けてきたけれども、誰一人として自分の言葉に耳を傾けようとはしなかった。それで、今まで口頭で伝えてきた預言を、書物の形で残しておこうと考えた。そして、そのもう一つの目的は、自分の預言活動を総括するということでもあったと思います。その手助けをしたのが、バルクです。彼は、書記として、エレミヤの預言を口述筆記した人物です。

<本論>
1、バルクの嘆き

そのバルクに対して、エレミヤは次のように言います。

『「バルクよ、イスラエルの神、主は、あなたについてこう言われる。『あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。』」』(エレミヤ45:2,3)。

バルクがなぜ、このように嘆いているのか、その理由は、はっきりとは記されていません。ただ、先程もお話ししましたように、今日の箇所は、36章と時代背景が同じですので、二つの章には何か関連があると考えるのが自然ではないかと思います。36章には、エホヤキム王が、バルクの書いた最初の巻物を読み聞かされて、その内容に激怒し、燃やしてしまったことが記されています。36章21節からご覧ください。

『王はユディに、その巻物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。ユディはそれを、王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の
火が燃えていた。ユディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火に投げ入れ、ついに、巻物をすべて暖炉の火で焼き尽くした。(中略)王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるように命じた。しかし、主は二人を隠された』(エレミヤ36:21~23 26)。

預言者エレミヤが神様から受けた啓示を語り、それをバルクが聞いて一字一句漏らさないように正確に巻物に書いてゆくというのは、とても大変な仕事であったと思います。しかも、バルクは、それが、尊い神様からの啓示の言葉であると固く信じていました。もしかしたら彼は、その言葉を聞けば、エホヤキム王もきっと悔い改めるのでは、と期待したのかもしれません。しかし、その結果は、巻物は無残にも切り刻まれ、暖炉の火に投げ入れられてしまったのです。そのことを知った時のショックは、どれほどのものであったでしょうか。私も、サラリーマン時代に、苦労して作成した資料がちょっとした操作ミスで消えてしまって、本当にショックを受けたことがありましたが、バルクは、そんなこととは比べ物にならないほどのショックを受けたと思います。『ああ、私はわざわいだ。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない』という嘆きは、それが理由であったように思えます。

2、神からの答え

しかし、神様は、そんなバルクに対して、次のように言われました。

『『主はこう言われる。見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。この全土をそうする。』(エレミヤ45:4b)。

何か嘆いているバルクを励ますどころか、突き放しておられるような印象を受けます。神は、ご自身の主権を、バルクに示されたのです。この都エルサレムも、神殿も、自分が建て、植えたものである。それを、この自分が壊し、引き抜くのだ、と。この言葉は、バルクの嘆きに対しての明確な回答とは言えないかもしれません。ただ、ある意味、バルクにとって、ハッとさせられる言葉だったのではないでしょうか。
私たちの人生にも、今日のバルクと同じように、「なぜ、神様は、こんなわざわいを、痛みを、悲しみを、この私に与えられるのですか。なぜなんですか!」と叫びたくなる時があると思います。「いのちのことば」10月号に、私の古くからの友人で敬愛する長尾優氏は、「問いとしての聖書」と題して、次のように書いておられました。

「(ヨブやエレミヤ、また十字架上でのイエスの問いなどを例として挙げた後)これらの問いに天からの明確な回答は何も示されていません、答えのようなものがあったとしても、それは質問への誠実な応答ではなく、一方的な顕現であったり、嘆く者の声を封じ込める威圧の力として描かれています。しかしこれは神という存在者を、聞く耳を持たない暴君だと言っているわけではないのです。これは、人生の問いは、それもその人の実存そのものにかかわるような、たましいの深奥から沸き上がってくるような問いは問いのまま、無垢のまま残るものであって、私たちはそのようにしてこの不条理の生をそれでも生き抜いてきたのだ、ということの文学的表現なのです。古代ユダヤ文献としての聖書の価値は、それをそのままに勇気をもって記した点にあると思います」。

この一文を読んで、自分も、そのように問い続ける者の一人なのかな、と思わされました。

<結論>

『あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──主のことば──。しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。』」』(エレミヤ45:5)。

『あなたのいのちを戦勝品(第三版では『分捕り物』)としてあなたに与える』という言葉に、私は、何か心惹かれるものがありました。そして、自分は、この「いのち」というものを、そのように受け止めて、日々歩んでいるかな、と思わされました。何か、当たり前のことのように、何の感動もなく生きているのではないか、と。
今日の説教の題は「神の主権」ですが、「主権」と聞くと、ある方は、何か神様が人間の自由を抑圧するような、人間が一方的に服従を強いられる、そんな不自由さを連想されるかもしれません。確かに、この世の支配者たちの主権であればそうでしょう。しかし、「神の主権」を認めるということは、そうではないと私は思っています。「神の主権」を認めるということは、私たちが生きているという、この「いのち」というものが、決して当たり前のことではなくて、先程、お読みした5節にあった『戦勝品』のように、神様から賜ったものであるということを認め、その「いのち」の不思議さに感動しながら生きるということにつながるのかなと、思わされました。
今日の開会聖句は、イエス様の有名なみことばです。

『まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。』(マタイ6:33)。

そして、その後に、私の大好きなみことばがあります。

『ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。』(同6:34)。

「神の主権」を認め、たとえ明確な答えが見つからなかったとしても、その主権を求め続ける。それが、今、この時、私たちの「いのち」を輝かせることにつながるのはないでしょうか。

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新聖歌

開会祈祷後:37番、メッセージ後:216番

聖書交読

詩編 90篇1~12節

2018年教会行事

11月21日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#50-2633

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