父に求めよ

    令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
    なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

    メッセージ

    <ヨハネ福音書16章17~27節>
    信徒:K

    開会聖句

    ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

    <へブル人への手紙 4章16節>

    メッセージ内容

    Youtube動画

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    メッセージ原稿を公開しました。  

    <はじめに>  
    ・日曜日の夜は「どうする家康」を見るのが楽しみですが、先週は夕方映画に誘われ、映 画を見に行きました。「君たちはどう生きるか」という、封切り直後の宮崎駿監督の新作です。 このタイトルの本は戦前の軍国主義の時代に子ども向けに書かれた小説ですが、6 年前に 漫画化されて有名になりました。映画の内容そのものは監督のオリジナルでしたが、この本に 刺激を受けて作られたことはわかりました。彼は一度引退を表明しましたが、撤回し、80 歳を 超えた年齢でこの映画を作ったそうですから、彼なりの次世代へ問いかけだろうと思います。
    翌日の聖書日課はエレミヤ5章で、こんな1節が目にとまりました。

    「結局、あなたがたは どうするつもりなのか。」(31)

    神さまは預言者エレミヤを通して、神の民としての生き方を見失い、好き勝手に生きる彼らに、繰り返し〃警告をされます。神さまは本気で民を心配し、「あなたがたはどうするのか」と悔い改めを迫られます。結局、民は警告を無視し、神さまはご自分のメシアよって新しい神の民を生まれさせました。今日は告別説教の最後で、イエスさまは、 弟子たちが味わう喜びについて話をされました。主題は「誰にも奪い去られない喜び」。

    <本論>
    I.弟子たちの嘆き悲しみは、誰にも奪われない喜びに変る

    ことは、過越の祭の前日、イエスさまが弟子たちの足を洗い、ユダが遂に裏切りを決行した ところから始まりました。彼の出番はヨハネ福音書ではそこまでですが、マタイ福音書 27 章に は彼の最後までが記されています。彼はイエスさまを銀貨 30 枚で売り渡した後、死刑判決に ショックをうけます。「無実の人の血を売って罪を犯した」と、取引した祭司長たちに談判しま すが、はねつけられ、哀れな死を遂げます。世間の空気に敏感であったユダでさえ、指導者 たちの悪意の大きさには気づいていなかったのです。まして、残りの 11 人にはその緊迫感は 伝わらず、ただ、イエスさまが目の前からいなくなることへの不安にのみ囚われていました。イエ スさまはそれに気づき、

    19節「イエスは彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに 言われた。『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』 と、わたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。」

    と言われました。私たちは それが十字架と復活であることを知っていますが、御霊の注がれてない彼らはずっとそのこと がわからず、論じ合っていたのです。
    イエスさまは、今までのような説明「父の家に住まいを用意しに行くが、また戻ってくる」、 「助け主が遣わされる。その方は真理の御霊で、この方が全てのことを教えてくれる。」では なく、違ったことを言われました。

    20~22「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変ります。…し かし、子を産んでしまうと一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。…わたしは再びあなたがたに会います。…その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」

    「まことにまことに」で始まります。イエスさまがいなくなることを弟子たちは嘆き悲しむが、真逆に世は喜ぶのです。ユダヤ社会の統治者にとって、イエスさまはその安定を 乱す危険人物でした。今に始まったことではなく、イエスさまは赤ちゃんのときも、ヘロデ王に疎 まれ、この王が死ぬまで、家族でエジプトに避難していました。公生涯になって、メンツをつぶされた律法学者やパリサイ人の妬み、軍事的メシアの期待を裏切った民の腹立ち、神殿を 商売(強盗の巣)の場にする者の怒りなど、人間の自己中心な思惑が複雑に絡まり合い、 巨大な悪の力となり、イエスさまをこの世から追い出してしまいました。

    ヨハネ序文 1:11「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受入れなかった。」

    の通りです。
    しかし、イエスさまは再び弟子たちに会われるので、そのときには今の悲しみは喜びに変る。 そのことを出産の苦しみにたとえて説明されました。出産の激しい痛みを通過して、一人の人が生まれた喜びがくるように、弟子たちも、誰にも奪われることがない喜びに満たされるという のです。イエスさまが告別説教の最後に伝えたことは、彼らの嘆き悲しみが誰にも奪い去られ ることのない喜びに変わるということでした。そして、もう一つ気づかされることがありました。十字架を目前にしているイエスさまも、産みの苦しみの半ばにおられるのではないかと思ったのです(12:27)。イエスさまは、弟子たちがイエスさまと再会する日のことを、23 と 26 節で「その日には」と 2 回に分けて話されていますが、この日には、弟子たちの喜びの他に、イエスさまにと っても大きな喜びの日になります。それはイエスさまの願いが実現する日だからです。

    II.誰にも奪われない喜びとは、父との交わりに入れられること

    実は、告別説教の中で、まだふれていない話題があります。2 回とばしてきました。1 度目 は、

    14:13「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。」

    2 度目は

    15:16b「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」

    で、わたしの名によって求めなさいという命令です。そしてここ23 節では「その日には…。まことに、まことに…・。わたしの名によって父に求めるものは何で も、父はあなたがたに与えてくださいます。」まだ違いがわかりませんね。では、26 節「その日に は、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言 うのではありません。」後半に違いがあります。イエスさまが弟子たちに代わるのではなく、弟子 が父に願いなさいと言われてます。私たちは、クリスチャンに成り立ての頃、公式のように、イ エスさまの御名によって、父なる神に祈ることを教えられました。それは、私たちの祈りが一旦イエスさまに届き、イエスさまが神さまに届けてくださるという代理のニュアンスをもっています。 確かに、イエスさまには、代理とか仲介という大切な働きがあります。しかし、ここで「あなたがた に代ってわたしが父に願うのではない。」ときっぱり否定されました。それは、父を前にして、私 たちはイエスの背中に隠れている存在ではなく、イエスの横に並び立つ存在だと言いたいので はないでしょうか。1:12「しかし、この方を受入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、 神の子どもとなる特権をお与えになった。」にあるように、神の子とされたということだと思います。 27 節「父御自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが 神のもとから出てきたことを信じたからです。」ここでも、父御自身が愛してくださるのは、イエス さまの背後にいて姿の見えない私たちではなく、父の御前にいる一人一人の個性豊かで、イ エスさまの愛(アガペー)によって結ばれている私たちだと思います。
    今日の開会聖句はへブル 4:16「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただい て、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」へ ブル書にはイエスさまは私たちのためのとこしえの大祭司で、ご自分をたった一度献げて罪の なだめをしてくださった(へブル 9:26b)ことが説明されています。共観福音書の十字架の場 面には、イエスさまが息を引き取られたとき、神殿の幕が真っ二つに裂けたと記されています。 16 節の勧めは、幕が存在しないから出来ることなのです。特別な日でなくても、祭司でなくて も、犠牲の動物を持たなくても、神殿でなくても、神の前に出ることができます。むしろ積極的 にそうしなさいと、へブルの著者は勧めています。イエスさまの産みの苦しみは、新しい神の民、 神の子とされたクリスチャンを生みました。私たちは父とイエスさまの親しい関係の中にいます。 ですから、その父に「アバ、父よ」と親しく呼びかけることをイエスさまは教えてくださいました。そ れこそ、イエスさまの願いでしたし、父の命令でした(12:50)。イエスさまが伝えたかった 2 つめ のこと、誰にも奪い去られることのない喜びとは、父と子の交わりに入れられることです。
    私の父は普段は口数の少ない人でしたが、アルコールが入ったら喋ります。そんな時に、 話していた私の幼い頃のエピソードがあります。近くのデパートへ行きましたが、エスカレータ ーを上った付近で、私は一瞬迷子になったらしく、大声で「おとう」と父を呼んだそうです。父 の話しぶりでは、それはとても恥ずかしかったことで、もし私が「お父さま」、「パパ」とか、せめ て「おとうちゃん」と呼んでいたら、記憶に残らなかったかもしれません。それでも、恥ずかしく ても、飛んできてくれたのでよかったです。肉の父親は少々不完全なところがあります。が、天 の父はそうではないでしょう。「アバ父」と呼び求めれば、喜んで耳を傾けてくださると思います。

    <おわりに>

    「あなたがたはどうするのか」への私なりの答えを考えてみました。今週も色々なことに私た ちは出くわし、そのできごとに一喜一憂するでしょう。しかし、私たちは神の子とされた特権をし っかり握り、大胆にイエスさまが用意してくださった恵みの御座に近づこうと思います。

    メッセージ内容のダウンロード(PDF241KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:22番、メッセージ後:349番

    聖書交読

    詩編9篇 1~12節

    2023年教会行事

    7月26日(水) オリーブいきいき百歳体操

    #55-2878

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