主の祈り

    令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
    なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

    メッセージ

    <ヨハネの福音書 17章1~11節>
    信徒:K

    開会聖句

    キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。

    <ピリピ人への手紙 2章6~7節前半>

    メッセージ内容

    Youtube動画

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    メッセージ原稿を公開しました。  

    <はじめに>  
    ・「主の祈り」と言えば、マタイ6章の「天にまします我らの父よ…」ですね。当時の律法学者たちが、人前で自分の行いを見せびらかしていたので、見えるところで祈るな、言葉を繰り返して祈るな、天の父は祈る前から、あなたがたの必要を知っておられるから、こう祈りなさいと示されたお手本です。今回の「主の祈り」はそれとは全く別物ですが、紛れもなくイエスさまの祈りなので、このタイトルをつけました。これは告別説教を終えたイエスさまが、父に祈られた祈りで、1章ほぼ全部です。「わたしは父であるあなたが示されたように、語るべき人にすべてを語り、見せるべき人にすべてのわざを見せましたので、あとは父にお委ねしますから、どうぞよろしくお願いします。」という、切々とした祈りです。主題は「イエスの栄光」について。

    <本論>
    I.父に願われたわたしの栄光は、十字架と復活のこと

    いつものように鍵となることばですが、それは「栄光」ということばで、福音書の中でもヨハネが断トツで、22回も使われています。なぜ、多いの?まず、その「栄光」が集中している1~5節を見ましょう。

    1節「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」
    4節「わたしが行なうようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」
    5節「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」

    計5回の栄光ですが、2回はあなた(父)の栄光、3回はわたし(子)の栄光です。イエスさまが祈られたことは、「わたし(子)の栄光を現してください。」ということでした。どういうことを言っているのでしょうか。

    イエスさまが公生涯において、何度も話されたことは、

    「父はわたしのうちにおられ、わたしも父のうちにいる。」、
    「わたしを見た者は、父を見た。」(14:9,10)

    ということ。つまり、「自分と父は一つで、自分は神から遣わされた者であるから、わたしを信じなさい」と言われたのですね

    。3節には「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたがイエス・キリストを知ることです。」

    とあります。永遠のいのちとは、死を待つまでもなく、父と子を信じたときからそこにつながるいのちです。そのために、父の示されたわざを忠実になさいました。

    4節「わたしが行なうようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」

    と仰っています。しかし、イエスさまがどれほど父の栄光を現されても、

    15:24「もし私が、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。」

    という結果でした。どれほどのしるしを証拠として彼らに突きつけても、効果なし。

    イエスさまが行なわれたわざは7つ記されています。カナのぶどう酒、役人の息子の癒し、ベテスダの池でのいやしなど、最後はラザロの復活です。実はもう一つ大きなわざが残っていました。それは、どの福音書にも記されていること、十字架と復活です。これはイエスさまではなく、父のなさるわざでした。イエスさまはその時、ただ惨めな姿で犯罪人として十字架にかけられていました。マタイでは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。見ていた誰もが、イエスさまは人に捨てられ、神にも捨てられた、どうしようもなく惨めな偽メシアであった、と思ったでしょう。しかし、父がその大能の力をもって、イエスさまを復活させられます。イエスが言っていたことは本当だった、イエスは本物のメシアであったと、世に明らかになります。大逆転です。それ故、ヨハネ福音書は、十字架と復活を「栄光」と呼ぶのです。それが、ヨハネに「栄光」ということばが多いわけです。

    「わたしの栄光を現してください。」は、そのわざを父が行なってくださいという祈りですから、イエスさまだけの祈りです。マタイのような模範の祈りではなく、あのゲッセマネの祈りに代わるものと言えます。他には記されているゲッセマネの祈りが、ヨハネにはありません。17章はヨハネ版ゲッセマネです。その祈りを読みましょう。

    マタイ26:38「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」
    39「父よ、出来ることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに…」。

    ルカには印象的な描写があります。

    ルカ22:43~44「御使いが天から現われて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」

    皆さんの記憶に残っている箇所だと思います。イエスさまの苦しみは人間の極限に達しているのですね。「わたしの栄光を現してください。」は、そういう覚悟の上でのイエスさまの祈りなのです。栄光とは十字架と復活のこと。では次に、もう一つ、受肉(人となられた)と言うイエスさまの栄光についても考えてみましょう。

    II.誰にも奪われない喜びとは、父との交わりに入れられること

    5節「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」

    このことばは、

    1章冒頭の「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。…造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」

    を思い出させます。 ヨハネは、イエスさまを創造のときから存在し、父と共にそのわざをなさった方として紹介をしています。私たち被造物は、その創造主に栄光を帰する(ほめたたえる)ことが一番の仕事です。ある先生が、「皆さん、間違えないでください。神さまは、私たちのために存在しているのではないのですよ。私たちが神さまのためにいるのですよ。」と言われました。分かっているけど、ちょっとガクッとしました。自分の幸せを求めて、信仰を持った人が殆どではないでしょうか。でも、神さまを誉め讃えることが、私たちを幸いに導くというのが、本当であることが、段々とわかってきます。

    「幸いなことよ。主の教えを口ずさむその人」(詩篇1)

    のように。

    開会聖句は、

    ピリピ2:6,7「キリストは神であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、…。」

    イエスさまのへりくだりをあらわす有名な箇所です。イエスさまの栄光とは、創造の神であっただけでなく、そんな神がへりくだって人となられたことだと思うのです。そんなあり得ないことを世のためになさったので、私たちもそれに倣うようにと、ここから私たちは教えられています。私の場合なら、腹を立てても一呼吸おくとか、出来るだけ柔和に柔和に心がけるのですが、でもそれって、上から目線をやめるとか、相手のことも尊重するとかという世の処世術と変わりないんじゃないかと思いました。しもべになる、へりくだるって、どうすることなの?

    <おわりに>

    いのちのことば7月号の記事。

    「ある先生が他教会で奉仕をしているときに、自分の教会の役員から電話を受けました。役員会で意見が二つに割れて、けんかとなり、教会が分裂してしまいそうだと言うのです。先生は、まずその人を落ち着かせて言いました。『会議は今すぐ解散させ、来週までみんながこのことについて祈ってくるように伝えなさい。そしてまた来週話し合おう。』電話の彼は納得していない感じでしたが、その時はそれで収まりました。次の聖日にみんなで集まり、話し合いが始まりましたが、答えは見えません。先生は、また来週まで祈って決めようと言いました。ある役員は、もう締め切りが迫っていて、祈っている場合ではなく、一刻も早く決めないとだめだと言いましたが、先生は『ただ祈ってきなさい』と言い返しました。それから、一週間後、また集まりました。一人の人が涙を流して言いました。『私は今まで、自分の意見を通そうとしか考えていなかった。相手が悪いと思い人を裁いていた。昨晩、祈っている時にイエスさまが私を求めなさいと言って、私を抱きしめてくれました。そして、そうだ、自分の意見を通そうとしてばかりではだめだ。みんなで神さまの思いを受け取らなくてはと思った。』と話しました。そうしたら、隣にいる人も同じような体験をしていて、そこで奇跡が起きました。あの役員たちが一つとなり、神さまに感謝の祈りをささげたのです。 さて、どの意見にまとまったかというと、全く違った答えになったそうです。彼らは会議の時に、最初にちょっと祈ってから、思っていることを話していました。自分の意見は神さまにより頼んで得たものではなく、自分の都合で計算し、これが最善だと思い握りしめていたものだった。両者がそう思い、すべてを手放したときに、神さまの思いを受け取ることができたのです。」

    これを読んで、私は「へりくだる」とは、神さまを信頼して自分を退かせることだと思いました。これは大変難しいことですが、そうしないと、神さまが働かれる余地を奪ってしまうことになります。私たちは、このことで、多くの失敗を日々積み重ねている気がします。しかし、今週も自分を低くして、「主よ、私に先立ってください。」と祈りつつ、歩みたいと思います。

    メッセージ内容のダウンロード(PDF216KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:156番、メッセージ後:394番

    聖書交読

    詩編14篇 1~7節

    2023年教会行事

    8月30日(水) オリーブいきいき百歳体操

    #55-2883

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