高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。
メッセージ
<イザヤ書 6章 1~13節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
それはこうあるからです。『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。』
<マルコの福音書 4章12節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ原稿は、礼拝前ですが、家庭礼拝用として事前公開します。
<序論>
・しばらく「イザヤ書」からの説教となります。イザヤは分裂王国時代に活躍した預言者ですが、その名前は「主は救い」という意味だそうです。ちょうど昨年の今頃、「エゼキエル書」から話させていただいたんですが、「イザヤ書」は旧約の三大預言書の最初の書で、ある註解書には次のように書かれていました。
「本書は、聖書中他に類例を見ないほど、その内容と表現力に優れ、最も偉大な書、崇高な書と評価されている」。
すごいです。私なんかがどこまでお話しできるかとビビッてしまいますが、主の助けを祈りつつ、皆さんと一緒にみことばに耳を傾けたいと願っています。
1、ウジヤ王が死んだ年に
今日の6章はイザヤの召命の場面です。1節にありましたように、彼はウジヤ王が死んだ年(紀元前742年頃)に召命を受けます。そして、1章1節を見ると、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、さらにマナセの時代まで、実に50~60年近くもの年月を預言者として活動した人です。「Ⅱ列王記」で言えば15~21章になりますが、イザヤが召された年に死んだウジヤ(アザルヤ)の52年にも及ぶ治世は安定と繁栄の中にありました。しかし、それは見せかけの繁栄で、社会には矛盾と不義が満ちていたようです。「Ⅱ列王記」には、『(彼は)主の目にかなうことを行った』というようなことばで、歴代の王たちの評価が短く書かれています。ウジヤは、どちらかというと善王の範疇に入る王でしたが、その晩年は余り良いものではなかったようです。「Ⅱ列王記」15章には次のように書かれています。
『ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔離された家に住んだ。王の子ヨタムが宮殿を管理し、民衆をさばいた』(Ⅱ列王15:4,5)。
ウジヤ王の死は、ユダの国が衰退へと向かう暗い時代の始まりを予感させるものだったのです。
2、聖なる、万軍の主
イザヤが神からの召命をいただいたのは、当時のエルサレムにあった神殿にいた時でした。彼は『アモツの子』と呼ばれていますが、伝承によるとアモツはアマツヤ(ウジヤの父)の兄弟であり、イザヤとウジヤとは従妹同士になります。イザヤは恐らく、身分の高い宮廷預言者という立場であったと思われます。ですので神殿にも自由に出入りすることができたのでしょう。2節にある『セラフィム』とは、御使い、所謂、天使のことですが、その叫び声で敷居の基は揺るぎ、宮は煙で満たされた、とあります。想像するだけでも、その荘厳さが浮かんできそうですが、そのような神さまのご臨在に触れた時、まずイザヤが言ったことばが5節です。
『「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」』(イザヤ6:5)。
かつて、神はモーセに向かって、
『「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」』(出エ33:20)
と言われましたが、イスラエルで人が神を見るということは死を意味していました。そして、イザヤが自らの死を覚悟した瞬間、彼の心に浮かんできたのは自分の罪深さでした。セラフィムは、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」と神を讃えましたが、聖(カードーシュ)とは「分離する」、或は「区別する」ということを意味しています。聖なる神と罪ある人間とは分離されなければならないのです。あのペテロも、イエス様のおことばに従って網を下し、たくさんの魚が捕れた時、
「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」(ルカ5:8)
と言ったと記されていますが、私たちが本当に神に従う者とされるためには、そのようなところを通られる必要があるんですね。
3.燃えさかる炭
『すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」』(イザヤ6:6,7)。
イザヤは、聖なる神のご臨在に触れ、自分の罪の大きさに恐れおののいた時、罪を取り除いてくださる神との出会いを経験しました。彼はここで、自分の罪は神の贖いの力によってしか赦されえないことを悟ったのです。イザヤは、人の側からの聖さではなくて、神の側からの聖さを求めた人であったと思います。そして、そのことを自らの原点として生きた人だったのではないでしょうか。自分を聖めてくださった神の側からの出発。イザヤの信仰の歩みは神様の愛から始まったのです。私たちも同じではないでしょうか。自分の側からの聖さではなく、神様の愛が人となられたイエス様からの聖さを求めて、信仰の歩みを始めた者たちです。いつも、どんな時にも、そこから始めたいと願います。
そして、今日の開会聖句ですが、皆さんもご存じのように、新約聖書には旧約聖書からの引用がたくさんあります。その中でも一番多いのが「イザヤ書」からで、このイエス様のおことばもそうなんですが、あの有名な「種まきのたとえ」の後に弟子たちに向かって語られたことばです。その前の節でイエス様は
『「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。」』(マルコ4:11)
と言われたのですが、この頃は、弟子たちも外の人たちも余り変わりはないと言うか、何しろ、己の野心のためにイエス様に従っていたみたいなところがありましたから・・・。今日の開会聖句は、所謂「頑迷預言」「逆説の預言」と呼ばれている難解な箇所で、まるで神様がご自身のみこころを私たち人間が悟ることがないように、神に立ち返ることがないように仕向けておられる、というようにも聞こえます。確かに、自分自身の頑迷さを思う時、『見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない』とは自分のことか、と思ってしまうんですが、それと同時に、神様は私たちがどれほど罪深いかということもよくご存じであって、あえて、このような逆説的・断定的な表現を用いてご自身の強い願いを強調しておられるとも理解できると思うのです。それは、ご自身に従う者に、宣教の働きの結果をあらかじめ覚悟させると同時に、神はどこまでもご自分の民の真の悔い改めを願っておられるということを示していると思います。そして最後に、今朝、皆さんと一緒に覚えたいことは、「イザヤ書」6章は10節で終わりではないということです。
『私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は言われた。「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。主が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔。」』(イザヤ6:11~13)。
ここに『残る』ということばが二度出てきますが、イザヤの預言の大きな特徴の一つは「残りの民」という思想です。それは、尽きることのない神の恩寵を表しています。その恩寵が最も具体的に表されたのがイエス様の十字架です。イエス様は、あの十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と祈られましたが、その祈りのことばにも続きがありました(「詩篇」22篇)。ユダヤ人であれば、イエス様の祈りの続きが、皆、分かったことでしょう。「詩篇」22篇の最後も、残りの者、子孫たちが世代を越えて主の義を語り告げる。それは主の義が行われたからと歌われています。私たちも歌いましょう。神の限りない恩寵を。
新聖歌
開会祈祷後:137番、メッセージ後:397番
聖書交読
詩編 30篇1~12節
2020年教会行事
7月22日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
7月1日(水)から感染予防対策を講じつつ、再開しました。
#52-2720
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