体調のすぐれない方、ご不安な方および高齢の方は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。
メッセージ
<イザヤ書 40章1~11節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
<エペソ人への手紙 4章8節>
メッセージ内容
Youtube動画
動画公開が遅れて申し訳ありません。
メッセージ動画公開:7/20 PM 5:21
メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。
<序論>
・今朝は「イザヤ書」40章からです。「イザヤ書」は66章までありますが、ちょうど一年程前、何回かに分けてその前半部分(39章まで)から説教をさせてもらいました。「日々のみことば」8月号のアドバイス(イントロダクション)にも書かれていましたが、本書にはキリストとその御業を指し示す預言が多数あり、新約聖書にも本書からの引用が頻繁に見られます。その内容の深さ、広さ、福音的性格から、また、旧・新約聖書が66巻で、本書も66章ということも相まって、「イザヤ書」を小聖書と呼ぶ人もおられます。イザヤは、分裂王国時代に活躍した預言者ですが、南ユダのウジヤ王が死んだ年(紀元前742年)に神様から召しを受けます(6章)。そして、その時から実に60年近くもの年月を預言者として活動します。学者の中には、イザヤの預言の範囲が余りにも長期間に及んでおり、また、その内容も多岐にわたるため、今日の40章以降を「第二イザヤ」、更に55章以降を「第三イザヤ」として、複数の著者を想定する人たちもいるようです。
今朝は、この「イザヤ書」をテキストに、「もう一つの現実」と題して、皆さんとともにみことばに耳を傾けたいと願っています。
1、慰めよ、慰めよ
先週、元私たちの教会のメンバーで、同じMBの教会に転会され、そこで信仰生活を守っておられたU兄が召天されました。弔電を打たせていただいたんですが、その内容に頭を悩ませながら、人間のことばでご遺族の悲しみをお慰めするのは本当に難しいなぁ、と改めて思わされました。その弔電の最後に、主からの限りない慰めを祈ります、と書かせていただいたんですが、今日の40章冒頭のことばは、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」なんですね。この時、イスラエル(南ユダ)の民は依然としてバビロンでの捕囚の中にあり、そこから未来における解放が預言されているように見えます。ただ、これらの預言はそれだけではなく、更に何百年も後の時代、新約の時代におけるイエス様の救いについて、更には、世の終わり、終末における完全な解放についての預言のようにも見えます。恐らく、イザヤには、バビロン捕囚からの解放、キリストによる新約時代の救い、終末期の完全な解放といった神の贖いの業が、一つ一つ区別されて啓示されたのではなかったのでしょう。これらのことが、言わば混然一体となって、神の救いの全体像として示されたのではないかと思われます。そして、2節。
『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」』(イザヤ40:2)。
「二倍のものを主の手から受けている」とは、罪の結果の罰を十分に受けた、という意味に理解することができます。ただ、原文に「罰」という文字はありませんので、もしかしたら、十分な恵みを受けたと解するほうが正しいのかもしれません。間違いなく言えることは、今、捕囚となったイスラエルの民の苦役は終わり、その咎は償われていると、神は慰めに満ちたことばを、彼らに向かって優しく語りかけてくださっているということです。
2、草はしおれ、花は散る
そして、3節。
『荒野で呼ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ』(イザヤ40:3)。
これは、皆さんもよくご存じのように、新約時代のバプテスマのヨハネを指し示す預言だと言われています(マタイ3:3)。マタイは、はっきりと、そのように引用していますが、バプテスマのヨハネは、困難な時代にあって、約束のメシアの到来という希望のメッセージを取り次ぐために遣わされた預言者でした。
今週の金曜日には、いよいよ東京2020、東京オリンピックが開幕します。「無観客」とか、前回の1964年のオリンピックと比べても全く違ったものになりそうですが、それは、コロナのためというだけでなく、何か私は、未来への希望というものが、あの時代とは決定的に違っているように思えてなりません。前回のオリンピックの時には、私はまだ4歳でしたので、白黒テレビでかすかに見た記憶しかないんですが・・・。もう随分前になりますが、山田昌弘という社会学者が「希望格差社会」という本を出版して、そんな言葉が広まりました。私は、決して、前回のオリンピックの頃、あの時代が、今とは全く違う、バラ色で希望に満ち溢れた時代であった、と言うつもりはありません。それでも、その少し前の1958年の東京の下町を舞台にした「Always 三丁目の夕日」という映画で描かれたような、貧しい中にも、何か、今日よりは明日、今年よりは来年、何の根拠がなくても、そんな漠然とした夢や希望があったように思うんです。たしか「Always 三丁目の夕日‘64」という続編もあったと記憶していますが、綾小路きみまろじゃないですが「あれから40年!」じゃなくて60年ですね。今、教会も、日本の社会と同じく、大きな閉塞感に直面しています。ただ、逆に言うと、そんな時代だからこそ、今日のイザヤやバプテスマのヨハネがそうであったように、私たち一人一人が果たすべき役割は、益々、重要さを増しているのではないでしょうか。いつも、聖餐式の時にお読みする一文にあるように、「あなたの御愛に忠実に、真剣にお応えする者でありますように」と祈りたいですね。諦めず、ふてくされず、時代のせいにしないで、語り続けたいですね。8節にあるように、
『草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」』(同40:8)。
本当に、そのように思います。
<結論>
今日の開会聖句は、新約聖書「エペソ人への手紙」のみことばです。
『私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました』(エペソ1:3)。
考えてみれば、これは、ものすごい、英語で言えばAmazing(驚くべき!)でAwesome(すげえ!)なみことばです。「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。ちょっとやそっとの祝福ではありません。そしてそれは、やがて祝福されますとか、祝福されるかもしれない、ということではないんです。もうすでに祝福されている、祝福してくださいました、と聖書は言っているんです。
今、コロナの影響で、一年半ほどお休みが続いているんですが、私が世話人をさせてもらっている「教団有志早天祈祷会」で、ある先輩牧師がこのみことばから話してくださったことを覚えています。その方は、特に「エペソ書」に強い思い入れを持っておられる方なんですが、自分は長い間、とてもこのみことばのようには思えなかった。神は私たちに、そこまでの祝福を注いでくださっているようには思えなかった、と仰っていました。ただ、その後で、自分の現実の姿とか、自分の可能性とか、自分の行いというものから目を離して、ただ、神がなさることを、神のご栄光の業だけを見させていただこうと、自分の視線を移した時に、神は確かに、ものすごい祝福を注いでくださっているんだなと感じることができた、とも仰っていました。それは、今日のメッセージの題にさせていただいたんですが、私たちが、もう一つの現実に目を向けるということではないかと思います。今日の「イザヤ書」40章9節の最後には、「見よ、あなたがたの神を」(イザヤ40:9b)という呼びかけのことばがあります。あなたは、今日、何にご自分の視線を注いでおられるでしょうか?私たちは、この世のものに目を奪われ、人の声に耳を奪われやすい者です。この、もう一つの現実、神がなさることに視線を注ぎながら、今週も歩んで行こうではありませんか。
新聖歌
開会祈祷後:253番、メッセージ後:284番
聖書交読
詩編71篇 1~9節
2021年教会行事
7月21日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
#53-2773
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