対面礼拝休止期間は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。
メッセージ
<イザヤ書 49章1~13節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
そして、私に言われた。「あなたはわたしのしもべ。イスラエルよ、わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」
<イザヤ書 49章3節>
メッセージ内容
Youtube動画
動画公開が遅れて申し訳ありません。
メッセージ動画公開:8/1 PM 7:10
メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。
<序論>
・「イザヤ書」後半からの2回目です。40章以降には4つの「しもべの歌」が出てきます。それは、①42章1~4節、②49章1~6節、③50章4~9節、そして、④52章13節~53章12節です。それぞれに様々な角度から主のしもべの姿が描かれています。今朝は「第二のしもべの歌」と呼ばれている49章から、「あなたはわたしのしもべ」と題して、ともにみことばに耳を傾けたいと願っています。
1、イスラエルよ
今朝の箇所は49章13節までですが、その前半の6節までが「しもべの歌」と呼ばれています。「イザヤ書」の40章以降は、それまでの箇所と比べて、預言されている内容が大きく異なるということは、前回のメッセージでお話ししました。イスラエル(ユダ)の民はバビロン捕囚の中にあり、そこからの解放が預言されているように見える、と。そしてさらに、今日の49章以降では、捕囚から解放され、エルサレムに帰された民に与えられる使命が預言されているようにも見えます。それまで、神に選ばれた者として、その使命を果たすようにと命じられたのは、ペルシアの王キュロスでした。
「キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。エルサレムについては『再建される。神殿はその基が据えられる』と言う。」主は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする。わたしはあなたの前を進み、険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る』(イザヤ44:28~45:2)。
キュロスはこの預言の通りに、紀元前539年、バビロンを滅ぼし、捕囚の民を解放し、故国を再建するように命じます。しかし、今朝の49章1節に出てきた『私』、つまり、しもべは、そのキュロスとは違うようです。このしもべとは、一体、誰の事なのでしょうか?
ある方は、「それは今朝の開会聖句にあるように、イスラエルのことなんじゃないの?神は、『あなたはわたしのしもべ。イスラエルよ、わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す』とおっしゃってるんだから」と思われたかもしれません。確かに、神はイスラエルを選ばれ、ご自分の民、しもべとして導いてこられました。ただ、この箇所においては、そのイスラエルの民全体をしもべと呼んでおられるようには思えないのです。それは、5節に次のようにあるからです。
『今、主は言われる。ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、母の胎内で私をご自分のしもべとして形造った方が言われる。私は主の御目に重んじられ、私の神は私の力となられた』(同49:5)。
この箇所は、その前の4節のしもべの告白に対する神からの応答と言えますが、しもべは、イスラエルを主(神)のもとに集めるために、つまり帰らせるために、この私は召されたと言っています。もし、そのしもべ自身がイスラエルの民ということになりますと、自分で自分を神のもとに帰らせるという変なことになってしまいますので、明らかにおかしいですね。それでは、このしもべとは、一体、誰の事なのでしょうか?
2、国々の光、わたしの救いをもたらす者
まず、みことばから読み取れることは、このしもべは自分からしもべになったわけではなく、神からの召しによってしもべとされたということです。
1節に、『主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいたときから私を呼ばれた』
とありますから。そして、神はこのしもべを、本当に大切なものとして保護し、守ってくださった。2節にある通りです。そしてさらに、このしもべの使命、しもべが召された目的は、3節にあるように、神様の栄光を現すことにある。そして、決定的とも言えるのが「しもべの歌」の最後の6節です。初代教会は、この6節のみことばによって、しもべにイエス様の姿を重ね合わせたのでしょう。
『主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」』(イザヤ49:6)。
しもべが召されたのはバビロン捕囚からの解放という小さなことのためだけではない。もっと先のもっと大いなる事。それは、国々の光となって、地の果てにまで神の救いをもたらす者とされるためなんだ、ということですね。
ただ、前回の「イザヤ書」40章からのメッセージでもお話ししましたように、これらのイザヤへの啓示は、時代ごと、出来事ごとに一つ一つ明確に区別されて示されたというわけではなく、言わば混然一体となって、神の救いの全体像として示されたのではないかと思われます。ですので、私たちは、このしもべの姿にも、イエス様だけではなくて、預言者イザヤ自身や、或いは、今の自分とも重ね合わせて見ることができるのではないかと思うのです。
<結論>
私自身、今回のメッセージを準備していて、特に自分の心に刺さったというか、心に残ったみことばがありました。それは、4節のみことばでした。
『しかし私は言った。「私は無駄な骨折りをして、いたずらに空しく自分の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは主とともにあり、私の報いは私の神とともにある。」』(イザヤ49:4)。
先日、久しぶりに、会社勤めをしていた頃の同期から電話をもらいました。多分、15年ぶりくらいだったと思いますが、本当に仲の良い奴だったので、とても嬉しく感じました。その友人も、60歳でいったん定年を迎え、再雇用で今も同じ会社で働き続けているんですが、「まだまだ頑張るで!」と元気に話していました。電話を切った後、ふっと、自分も、あの時、会社を辞めずにいたら、牧師にならなかったら、どうしてたやろなぁ、と思いました。いや、本当に後悔とかは全くないんですけどね。そして、それと同時に改めて思ったことは、色んなことがあって、神様は本当に不思議な、こんな自分にしかないという方法で、「絶対、献身なんかせえへんぞ!」と思っていた私を、牧師として召してくださったのかなぁ、ということでした。それは別に牧師になるとかならないとか関係なく、ここにおられる皆さんお一人一人の信仰の歩みにおいても同じようなことが言えるのではないかと思わされています。
最後に、8節のみことばに注目しましょう。
『主はこう言われる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、わたしはあなたを助ける。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を復興して、荒れ果てたゆずりの地を継がせる』(同49:8)。
あのパウロは、「Ⅱコリント」の中で、このみことばを次のように引用しています。
『神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です』(Ⅱコリ6:2)。
祈りましょう。
新聖歌
開会祈祷後:5番、メッセージ後:438番
聖書交読
詩編73篇 21~28節
2021年教会行事
8月4日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
※新型コロナウイルスの感染状況により変更・休止する場合があります。
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