裸になった預言者[家庭礼拝対応版]

「緊急事態宣言」が解除されたことから、5月31日(日)から、感染拡大予防に配慮したうえで礼拝を再開しています。
高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<イザヤ書 20章 1~6節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

あなたがたの言うことばは、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているので。

<マタイの福音書 5章37節>

メッセージ内容

Youtube動画

メッセージ原稿は、礼拝前ですが、家庭礼拝用として事前公開します。

<序論>  

・「イザヤ書」からの三回目です。今日の話の時代背景は1節に記されています。当時、最強を誇ったアッシリア帝国の王サルゴンが、タルタンを派遣し、アシュドデを攻め取った年とあります。年代で言いますと紀元前711年のことです。その10年程前、アッシリアは北イスラエルも攻め取っています。「Ⅱ列王記」18章9,10節にそのことが書かれていますが、ちょうど、この包囲戦の途中で、シャルマヌセルに代わってサルゴンがアッシリアの王となったようです。ちなみに、18章13節以降に出てくるセンナケリブというのは彼の息子で、父サルゴンが紀元前705年に戦死した後、王位を継いだんですね。この頃のユダの王は名君と言われたヒゼキヤです。
今日の説教の題は「裸になった預言者」とさせていただきましたが、イザヤがなぜ、3年もの間、裸になり、裸足で歩かなければならなかったのか。最初に、そのことから簡単にご説明したいと思います。

<本論>
1、周辺諸国の動き

今日の話から遡ること4年前、紀元前715年に、クシュ(エチオピア)の王シャバカがエジプト全土を制圧し、エジプト第25王朝というのを打ち建てます。つまり、エジプトとクシュにまたがる大国が生まれたわけです。その頃、ユダを始めとするパレスチナの諸国は、アッシリアからの重税に苦しんでいました。彼らは、その新しいエジプト王の力を借りてアッシリアに対抗しようと反乱を起こすんですね。今日の箇所に出てきた『アシュドデ』というのはペリシテ人の町で、その反乱の中心となった町です。しかし、この反乱は、アッシリア軍によってたちまち制圧されてしまいます。反乱を主導したアシュドデの王はエジプトに助けを求めて亡命しますが、新しいエジプトの王朝にもアッシリアに抵抗できるような力はなく、彼を捕らえてアッシリアに引き渡してしまうんです。当時のユダの王ヒゼキヤは、このアッシリアに対する反乱に、かなり深く関わっていたようです。それもあって、ユダの国はアッシリアから攻められ、降伏したり、また抵抗したりと、揺れ動くんですが、今日のイザヤの預言の
背景には、そのような周辺諸国の動きや経緯があったのです。

2、行動預言

2節前半を、もう一度ご覧ください。

『当時、主はアモツの子イザヤによって、すでにこう語っておられた。「行って、あなたの腰の粗布を解き、あなたの足の履き物を脱げ。」』(イザヤ20:2a)。

今、お読みした内容から察すると、この奇妙な啓示は、少なくとも1節の出来事から数えて3年以上前にはイザヤに示されていたと思われます。そうでなかったら、次の3節にある、『(彼は)三年間裸になり、裸足で歩いた』ということばと矛盾が生じてしまいますから。そして、イザヤが命じられたこのような預言の仕方を「行動預言」、或いは「象徴的行動」と呼びます。今回、本当に不思議に思ったんですが、ちょうど1年前の礼拝で、同じようなことを話していたということに気づきました。それは、「エゼキエル書」24章から「主のしるしとされた預言者」という題だったんですが、エゼキエルが愛する妻を亡くした後、神は彼に

『嘆くな。泣くな。涙を流すな。死者のためにうめけ。しかし、喪に服してはならない。頭にターバンを巻き付け、足に履き物をはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならない』

という、やっぱり奇妙なことを命じられるんですね。それは、彼のその姿を通して、バビロン捕囚の際には、あなたがたも同じような茫然自失の状態になるだろうということを民に示すためだったんです。まさに「百聞は一見に如かず」ということですが、今回のコロナの件で、YoutubeやZOOMなどを使って、礼拝や説教の映像までオンラインで配信することが一気に広まりましたが、そんなものが何もない時代には、預言者自身の姿が一番の広告塔と言うか、何よりも強烈なインパクトのあるメッセージとなったということですね。

3、裸で、裸足で

しかし、しかしです。考えてみれば、今回、神がイザヤにお命じなったことというのは、余りにも酷と言いますか、かわいそ過ぎるような気がします。何しろ、三年間も、裸で、裸足で歩き回れというのですから・・・。それは、肉体的にも、相当辛かったでしょう。中東のような地域では、日中は非常に高温になりますが、夜になると、今度は一転して厳しい寒さが襲ってきます。そして、それ以上に辛かったのは、彼の心だったのではないでしょうか。この裸や裸足というのは、今日の箇所にもあるように、当時の捕虜や捕囚とされた者の姿でした。以前にお話ししたように、イザヤはユ ダの王の従妹で高い身分の出身でしたので、このことは相当堪えたのではないでしょうか。しかし、聖書には、ただ、

『彼はそのようにし、裸になり、裸足で歩いていた』

としか記されていません。
今週の土曜日には75回目の「終戦記念日」を迎えます。私はいつも、この時期になると思わされるんですが、もし、私たちの教団が戦前に日本に来ていたら、そして、もし、自分がその時代に生きていたら(牧師になっていたら)、どうなっていただろうと。私たちの教会は平和主義の教会と言われています。その信仰告白にも「日本MB教会は平和の民である」と書かれていますが、もし、日本の国が戦争を始めるようなことになったら・・・。今回のコロナ騒ぎの中で「自粛警察」や「正義マン」というのが話題になりましたが、そんなどころではない、かつて山本七平さんが「空気の研究」という本の中で書いておられたような不穏で無責任な「空気」が、再びこの国に蔓延するのではないかと。そんな中で、今日のイザヤのように、神のことばをしっかりと受けとめて、ことばだけでなく、自らの行動で示してゆくということは、本当に難しいことだと思います。

<結論>

今日の開会聖句は、イエス様のおことばです。

『あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです』(マタイ5:37)。

これは、「誓ってはいけません」という戒めの後のことばなんですが、今回、私はなぜか、イザヤの姿を想像していた時に、頭に浮かんできたんです。それは、変な言い方になるかもしれませんが、みことばに対してシンプルに生きるということです。イザヤも実際には、心の中に様々な葛藤や戦いがあったと思います。しかし、彼は、三年間、みことばの通りに、裸で、裸足で歩いたんです。それはもちろん、クシュやエジプトの民の未来の姿を示すためだったんですが、裸とか裸足というのは、全く無防備の姿ですよね。もしかすると、イザヤは、この三年間、裸、裸足で生きることによって、信仰者として全く無防備に神に信頼すると言うか、みことばに対してシンプルに生きるということを学んだのではないか、と私は思わされたんです。私たちには、イザヤと同じように、なかなか裸、裸足で生きるということは難しいでしょう。しかし、せめて、この世の様々な「しがらみ(柵)」をしばし忘れて、できるだけシンプルに神に従う者でありたい、と切に願います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF99KB)

新聖歌

開会祈祷後:364番、メッセージ後:438番

聖書交読

詩編 33篇1~11節

2020年教会行事

今週はお休みです。

#52-2723

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