あらゆる民の祈りの家

8月22日(日)までの期間、大阪府に発出されている「蔓延防止等重点措置」に伴って、7月4日(日)より、礼拝を再開しましたが、8月2日(月)から8月31日(火)までの期間、再び緊急事態宣言の発出に切り替わるため、千里教会では感染状況を考慮し、8月8日(日)から8月25日(日)までの期間、対面での礼拝は中止し、オンライン礼拝として動画配信します。
対面礼拝休止期間は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。

メッセージ

<イザヤ書 56章1~8節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

<マルコの福音書 11章17節>

メッセージ内容

Youtube動画

メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・「イザヤ書」後半からの三回目です。今朝の56章から最後の66章までを、聖書学者の多くは「第三イザヤ」と呼びます。それは、ここには、安息日の厳守や異国の民外国人と 宦官についてなど、再建された新しい神殿とエルサレムに帰還した人々に対する ものと思われる言及があるからです。つまり、この「イザヤ書」の最後の部分は、それまでとは時代背景を異にしており、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰って来て、神殿を再建した頃に書かれたものではないかと考えられているのです。ただ、「イザヤ書」の著者の統一性を信じる学者たちはそのことを認めていません。私にはその真偽のほどは分かりませんが、今朝の箇所では、バビロン捕囚という苦難からの解放、故国への帰還と神殿の再建という、神からの大きな恵みをいただいた民が、新しく生まれ変わった民として、その恵みに応えるためどのように歩めばよいのかということが語られます。そして、それはイザヤの時代だけにとどまらず、ずっと先の終末の時代に生きる神の民である私たちの生き方ともつながっていると言えるでしょう。

<本論>
1、安息日を守って

前回のメッセージでもお話ししましたが、紀元前 537 年、バビロン捕囚の民は、ペルシアのキュロス王によって解放され、エルサレムに帰ることを許されます。ただ、大多数の民は依然としてバビロンの地に残されたのです。「エズラ記」によると、ゼルバベルを総督とする第一次の帰還民は 42,360 人でした。捕囚となった時もそうでしたが、この帰還の時も、それは長い期間をかけて数度に渡って行われたようです。また、エルサレムに帰って来た民たちの暮らしも、決して平穏なものとは言えませんでした。生活は苦しく、さらに、先にアッシリアによって亡ぼされた北イスラエルの残留民が外国人と結婚してサマリア人という混血の民族が生まれ、彼らが神殿の再建を妨害するということもあったのです。そんな苦しみを乗り越え、帰還民たちはようやく(第二)神殿の完成を見ます。しかし、それは、あのソロモンの神殿と比べると、見る影もないほどお粗末なものだったようです。「エルサレムに帰りさえすれば…」という彼らの希望、夢は無残にも打ち砕かれ、その信仰は危機に直面したのです。そんな彼らに向かって、神はイザヤを通して語りかけられます。

「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現れるのも。」(イザヤ 56:1b)。

そして、続く 2 節は、著者イザヤの応答のことばだと思われます。

『幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもその手を守る人は。このように行う人、このことを堅く保つ人の子は』(同 56:2)。

安息日の律法は、
「創世記」にある天地創造の出来事を起源とし、「申命記」3章15節にあるように、出エジプトでのイスラエルに対する神の力強い御手の業を覚えるため、守るようにと命じられたものでしたが、さらにこの後、驚くべきことが告げられるのです。

2、異国の民も宦官も

『主に連なる異国の民は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と』(イザヤ 56:3)。

主に連なる異国の民とは、異教から改宗した外国人のことです。また、宦官とは、ご存じの方も多いかと思いますが、去勢した男性のことで、昔の王や皇帝、妃たちの身の回りのお世話をした役人でした。「申命記」23 章にあるモーセの律法よれば、そのような人たちは神殿での祭儀(礼拝)に加わることはできませんでした。しかし、4 節。

『なぜなら、主がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる』(イザヤ 56:4~7a)。

今や、その民族や出自、社会的な身分などとは関係なく、ただ、神を真剣に求める者であれば誰でも神は受け入れてくださる、豊かに祝福してくださるのだ、と告げられたのです。

3、エチオピアの宦官とサマリアの女
宦官といえば、新約聖書の「使徒の働き」8 章に登場するエチオピアの宦官のことを思い出します。彼は礼拝のためにエルサレムに上り、帰る途中、馬車の中で「イザヤ書」を読んでいました。それは、53 章の「苦難のしもべ」と呼ばれる箇所でしたが、主の使いに命じられてそこを通りかかったピリポが宦官からの願いによってその解き明かしをしたことで宦官はイエス様を信じ、バプテスマを受けることができました。何か、同じ「イザヤ書」ということで、不思議な因縁のようなものを感じる話です。また、先程の「イザヤ書」56章7節の最初に、

『わたしの聖なる山に来させて』

というみことばがありました。
「ヨハネの福音書」4 章に、サマリアの女と呼ばれる女性とイエス様との問答があります。そこで、その女性は『主よ、あなたは預言者だとお見受けします』と言った後、次のように尋ねます。

『私たちの先祖は(サマリア人は)この山(ゲルジム山)で礼拝しましたが、あなたがたは(ユダヤ人は)、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています』(ヨハネ 4:20)。

それに対して、イエス様は次のようにお答えになりました。

『「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時で
す。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」』(同 4:21b~24)。

イザヤの預言は、イエス様が来てくださったことによって、文字通り、成就したのです。

<結論>

最後に、もう一度、今朝の開会聖句をご覧ください。これは、所謂、「宮きよめ」と呼ばれている場面で発せられたイエス様のことばです。

『「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」』(マルコ 11:17)。

イエス様は、今朝の「イザヤ書」のみことばを引用して、怒っておられるのですが、あの愛の人であるイエス様が、売り買いしている者たちを追い出し、両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛けまで倒された。私はずっと、イエス様がこんなにも激しく怒っておられるのは、神様そっちのけで商売ばかりに熱心で、言わば神を利用して儲けようとしている人たちに向かって怒っておられるのだと思っていたんですが、実は、そのことによって貧しい人たちが食い物にされ、神の助けを一番切実に求めている人たちが排除されてしまっているという現実があって、その背後には「神をわがものとする」かのような大祭司・律法学者・パリサイ人という宗教の専門家、支配者たちがいるという。そして、恐らく、そんな連中の利権の巣窟のようになってしまっていた神殿、許し難い社会の仕組みというか、不正、不信仰というものに対して、イエス様は心の底から怒っておられるんだということが、今回の事でよく分かりました。
もうすぐ東京オリンピックが閉幕します。色々なことがありましたが、選手たちが活躍する姿は本当に感動的です。ただ、「アスリートファースト」という言葉が掛け声だけで終らないように。利権がらみ、行き過ぎた商業主義と言われないようなオリンピックを、もっともっと目指してほしいですね。
「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」。私たち千里教会も、そのように呼ばれる教会でありたい、と切に願います。祈りましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF121KB)

2021年教会行事

週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。

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