主の平和の日 [家庭礼拝対応版]

「緊急事態宣言」が解除されたことから、5月31日(日)から、感染拡大予防に配慮したうえで礼拝を再開しています。
高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<イザヤ書 11章 1~10節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。

<イザヤ書 11章10節>

メッセージ内容

Youtube動画

メッセージ原稿は、礼拝前ですが、家庭礼拝用として事前公開します。

<序論>  

・「イザヤ書」からの二回目です。「イザヤ書」の大きな特徴の一つは、キリストの生涯が預言されているということで、そのことから「第五福音書」とも呼ばれています。昨年のクリスマスに9章からお話ししましたが、今日の11章も、多くの人にメシア来臨の預言として愛されている箇所です。
今日は、「主の平和の日」と題して、皆さんと一緒にみことばに耳を傾けたいと願っています。

<本論>
1、エッサイの根株から

『エッサイ』というのは、あのダビデ王の父の名前ですが、息子ダビデに比べると、聖書には僅かしか出てきません。ほとんど無視されていると言ってもいいのではないかと思います。それが今日の箇所では主役のように語られます。不思議に思えますが、その理由について、ある方は、イザヤはダビデの王朝に対して全く失望していたからではないか、と書いておられました。南ユダの歴代の王たちは、ダビデから始まる、言わば「万世一系」の男系の王ですから。前回の説教でもお話ししたように、イザヤはウジヤ王が死んだ年に預言者として召されましたが、ウジヤ王の死は、ユダの国にとって、悪い意味での転換点と言えました。彼の後継者たちは皆、神に拠り頼もうとはせず、己の事だけを考え、アッシリアにつく、自分はエジプトにと、右往左往していたのです。それはまさしく、人間的には「全く望みは失せた」と言わざるを得ないような状態であったと思います。しかし、神は、そんなイスラエルをお見捨てにはなりませんでした。

『エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て来て実を結ぶ』(イザヤ11:1)

ということばで、新しいダビデ家の王が生まれること、つまりメシア誕生の希望を与えてくださったのです。ただし、その預言が成就するのは、イザヤの時代から数えて、遥か700年も後のことでした。
先日、テレビを見ていましたら、富士山の噴火の可能性について議論されていました。富士山の噴火といえば、直近では、宝永の大噴火(1707年)がよく知られていますが、今から2900年程前(ダビデ・ソロモンの時代!)に、大規模な山体崩壊(御殿場岩雪崩)が発生して、ほぼ現在のような姿になったということを初めて知りました。専門家の話では、富士山のような火山の寿命は、大体、数十万年から百万年ぐらいで、富士山の年齢を人間で言えば今は10代ぐらいの年齢に当たるのだそうです。私はその話を聞きながら、「悠久」という言葉を思い浮かべていたんですが、私たち人間の一生というのはなんと短い、はかないものだなぁと。私たちは、本当に目の前のことで一喜一憂してしまいますが、私たちが招かれている世界、神のことばを信じていこうとする世界は、今日、明日にでもそれが実現して喜んだり悲しんだりするような世界ではないんですね。あのイザヤもそうであったように、自分の目ではその結果を見届けることができないような世界、そんな世界に私たちは招かれているんです。

2、正義と公正をもって

そして3~5節ですが、ここには、メシアの統治原理、つまりイエス様が被造物世界を支配される時の原理・原則が書かれています。それは、目の見るところや耳の聞くところ、つまり、表面的なところにはよらず、正義と公正、真実をもってさばきを下されるということですね。そして続く6~9節には、その結果としてもたらされる絶対的な平和の世界が宣言されています。私は、この箇所を読むたびに、何故か、いつも手塚治虫の「ジャングル大帝」が頭に浮かんでくるんですが・・・。日曜夜の7時半から、NHKで「ダーウィンが来た」というドキュメンタリー番組が放映されています。世界中の動物たちや大自然の営みが映し出されるんですが、感動的だなと思う反面、本当にシビアな世界だなということも思わされます。弱肉強食、食うか食われるかの世界ですよね。ただ、動物たちは、必要以上に殺すことはしません。自分や子孫が生きるために捕食しているわけで、私たち人間とは違います。人間は、そのような食物連鎖の頂点に君臨しているわけですが、私たちが生きているということ、私たちのいのちというのは、確かに誰かの犠牲の上に成り立っていると思わされる時があります。それは、毎日、お肉や魚という、何かの生き物のいのちをいただいているということもありますが、今、この世界で起こっている様々な争い、戦争や貧困、環境問題なども、自分は直接、関係ないと言っても、私たちが生きていることのもとをたどれば、全く無関係だとは言い切れないのではないかと思うのです。
先週のメッセージで、信徒のKさんが、私たちは誰しも、不条理を抱えて生きている。答えのない疑問を抱えて生きているんだと話しておられましたが、私も、本当にそうだと思います。それが天災であれ、人災であれ、「なんで私が、こんな苦しみに遭わなければならないのか?」「神が本当におられるのなら、なんでこんなことが…?」。真面目に信仰に生きようとすればするほど、そんな疑問が次から次へと心の中に湧き上がってくるのではないでしょうか。そんな時、このイザヤを通して語られた、神がご自身の正義と公正、真実をもってさばかれる世界。そして、その結果もたらされる絶対的な平和の世界も、何か絵空事のように聞こえてしまうかもしれません。でも、私たちは祈り続けます。待ち続けます。

<結論>

それは、10節。その前の9節の後半からお読みします。

『主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く』(イザヤ11:9b~10)。

主を知ることが、私の個人的な信仰のゴールではなく、海をおおう水のように地に満ちる、つまり、この神を知らない世界全体が神に立ち返る時が来る、と預言されているからです。そして、その日になると、すべての民族、国民が主の旗の下に集まり、主の栄光を拝するようになると。まず、私自身が神のことばを信じ、主の平和の日が来ることを祈り続けたい、と切に願います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF98KB)

新聖歌

開会祈祷後:3番、メッセージ後:257番

聖書交読

詩編 32篇1~11節

2020年教会行事

8月5日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
7月1日(水)から感染予防対策を講じつつ、再開しました。

#52-2722

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