自分の日を数えることを 教えてください [家庭礼拝対応版]

「緊急事態宣言」が解除されたことから、5月31日(日)から、感染拡大予防に配慮したうえで礼拝を再開しています。
高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<イザヤ書 38章 1、9~20節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

どうか教えてください。自分の日を数えることを。
そうして私たちに知恵の心を得させてください。

<詩編 90篇12節>

メッセージ内容

Youtube動画

メッセージ原稿は、礼拝前ですが、家庭礼拝用として事前公開します。

<序論>  

・「イザヤ書」からの四回目。今日の主人公はヒゼキヤ王です。「イザヤ書」36~39章は、彼の治世に起こったアッシリア軍のユダ侵攻事件を記しています。この箇所は、「イザヤ書」の前半(1~35章)と後半(40~66章)をつなぐ大切な役目を果たしていると言えます。内容的には、今日の38章9~20節にあるヒゼキヤの祈りを除けば、「Ⅱ列王記」18~20章の記事とほぼ同じです。聖書は、ヒゼキヤを、ユダ歴代の王19人の中でも特に優れた王として評価しています。「Ⅱ歴代誌」には、彼が水を確保するために、広大な地下水路を作ったことが書かれています(シロアム碑文)。ユダの国は四方を山に囲まれ、天然の要害とも言える地形でしたが、兵糧攻めや水を断たれると弱かったんですね。また、今回、初めて気がついたんですが、「箴言」25章1節には次のように書かれてありました。

『次もソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が書き写したものである』(箴言25:1)。

今日は、そのヒゼキヤ王が、預言者イザヤから死を宣告された後、神に祈り、病から回復するという物語です。

<本論>
1、あなたは死ぬ。治らない

1節に『そのころ』とあります。これは紀元前701年頃のことだと考えられています。ヒゼキヤが王となったのは紀元前715年ですので、彼の即位から14年目ということになりますが、先週、お話しした、イザヤが3年間、裸になって神のみこころを伝えたという出来事から数えると10年後のことになります。この年に、ユダの国は存亡の危機に直面します。

『ヒゼキヤ王の第十四年のことであった。アッシリアの王センナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取った』(イザヤ36:1)。

ヒゼキヤの父はアハズですが、アハズの時代、ユダの国はアッシリアに隷属していました。それは、アッシリアの力を借りて周辺諸国の脅威から自国を守るためでもあったんですが、そのために、ユダはアッシリアに重い税(言わば用心棒代)を支払うこととなり、さらに経済的な問題に加えて、アッシリアからの影響で偶像崇拝が蔓延するという結果を招いてしまいました。ですから、ヒゼキヤは、即位すると同時に、そのような外国に依存する状態からの脱却を目指して、自主独立の道を模索し始めたんですね。彼は、父アハズの時代に広まった偶像崇拝を一掃するため、宗教改革を断行します。また、アッシリアとの関係も見直そうとします。しかし、そのようなヒゼキヤの政策は、対外的にも対内的にも緊張を高めることになるのです。ヒゼキヤは預言者イザヤからの忠告によって、自国内の親バビロン派や親エジプト派からも政治的に一定の距離を置かなければなりませんでした。王として微妙な政治的バランスを保つ必要があったんです。そのような緊張状態が続く中、さらに追い打ちをかけるような事件が起こります。それが先程の36章1節にあったアッシリアによる侵攻です。まさに内憂外患。ヒゼキヤが病気になったのは、もしかすると、そのような心労が積み重なって、ということだったのかもしれません。そんなヒゼキヤに、イザヤは神のみこころを告げます。それは死の宣告でした。

「主はこう言われる。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。』」(同38:1b)。

本当にハッキリ言うなぁというか、情け容赦ないですね。この時、イザヤがどんな気持ちでヒゼキヤに死を宣告したのかは分かりませんが、何か、自分の患者に余命宣告をする時の主治医の気持ちというのを想像してしまいます。そのことを告げる側のイザヤにも相当なプレッシャーがあったのではないでしょうか。このような場合、変に期待を抱かせるよりも、ハッキリ言ってくれた方がずっといい、という方もおられるかもしれませんが、自分だったらどうだろうなと思わされます。

2、あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました

ヒゼキヤは死の宣告を聞き、顔を壁に向け、主に祈ったと記されています。

『「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、真実と全き心をもって、あなたの御前を歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いた』(イザヤ38:3)。

この時、彼は39歳でした。当時の平均寿命がどれくらいであったかは分かりませんが、まだ死ぬには若いですね。まあ、若かろうが、年いってようが、私たちは、イエス様も言われたように、自分のいのちを少しでも延ばすことはできないのですが、この時のヒゼキヤには、大きな心残りと言うか、やり残したことがあったんだと思います。それは、自分の国ユダの行末。アッシリアからの脅威に対してどのように対処してゆくかということだったと思います。彼は、何とかその行末を見届けるまでは、死んでも死にきれないという気持ちだったのではないでしょうか。神はそのようなヒゼキヤの願いを無下にはされませんでした。5節にあるように、彼の寿命を15年延ばすと約束してくださるんですね。今日の箇所は、その約束の通りに彼が病から回復した後、記したものです。ヒゼキヤの神に対する感謝の祈りと言ってもいいと思います。私は、この中で、特に17節のことばに引きつけられました。

『ああ、私の味わった苦い苦しみは平安のためでした。あなたは私のたましいを慕い、滅びの穴から引き離されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました』(同38:17)。

ヒゼキヤは、自分の病の回復を願って「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、真実と全き心をもって、あなたの御前を歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを」と必死に訴えましたが、病が癒された時、彼の心に迫ってきたことは、自分が癒されたのは己の真実や全き心によるのではない。ただ、神の真実と全き心によって自分は癒されたんだということだったのです。「あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました」という彼の告白は、そのことを示しているのではないでしょうか。

<結論>

今日の開会聖句は有名な「神の人モーセの祈り」と題された詩篇の一節ですが、少し前に「100日後に死ぬワニ」という漫画が話題になりました。私も少しだけ読んだんですが、タイトルの通り100日後に死ぬことになる(擬人化された)ワニのありふれた日常の出来事をデイリーで描いた四コマ漫画なんです。読者は主人公のワニが100日後に死ぬということを知っているわけですが、そのワニや周りの登場人物(動物)たちは知らない。私は、その漫画を読んで、ちょうど読者の視点が神様の視点と重なっているように感じました。読者はそのワニが100日後に死ぬということが分かって読んでいますので、本当に何気ない日常の出来事にも、何とも言えないような愛おしさと言うか、生と死ということと絡めて読んでしまうんですね。
私たちは、自分のいのちがいつ終わるのかということを知りません。それをご存じなのは、神お一人です。今日の開会聖句にあるように、「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください」と祈りつつ、今週も歩んで行きたいと思います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF99KB)

新聖歌

開会祈祷後:337番、メッセージ後:385番

聖書交読

詩編 34篇11~22節

2020年教会行事


8月19日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
7月1日(水)から感染予防対策を講じつつ、再開しました。

#52-2724

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