神のわざ

メッセージ

<ヨハネの福音書 6章16~29節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」

<ヨハネの福音書 6章20節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
 メッセージ動画公開:1/16 PM 1:10 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・「ヨハネの福音書」には独自の記事が多いのですが、6章前半にあるパンの奇跡と今朝のガリラヤ湖での奇跡の物語は四つの福音書のいずれにも出てくる記事です。それは、この福音書が書かれた時代の人々がそれらの物語から大きな慰めを得、自らの信仰の原点としていたということを示していると思います。初代教会のクリスチャンたちは本当に厳しい迫害や誤解の中でその信仰を守っていました。その苦労は、今の私たちにはとても想像しえないものがあったでしょう。今朝は、開会聖句のイエス様のことばを手掛かりに、「神のわざ」と題して、私たちの信仰の原点について、ともに考えてみたいと思っています。

<本論>
1、パンの奇跡

今も申し上げましたように、パンの奇跡は、四つの福音書すべてに出てくるのですが、それぞれで微妙に違っています。ですので、それは一回限りのものではなく、何回か同じような奇跡が行われたと解釈することもできます。そして、今朝の「ヨハネ」に特徴的なことは、一つは、その時期が、過越の祭に近い時期のことだと明記されていること。そして二つ目は、パンと魚が、一人の少年から献げられた物であったということだと思います。それは、大麦のパン五つと魚二匹(前の訳では「小さい魚」)であった、とヨハネは記しています。そして、それらのささげ物を見て、弟子のアンデレが「でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう」と言ったということも。この大麦のパンというのは、当時、貧しい人が食べる安いパンだったそうです。そして、魚も恐らく干物のようなものであったと思われます。しかし、人間の目には、それがどれほど小さくつまらないものに見えたとしても、イエス様に献げられ、用いられる時、イエス様はそれを何十倍、何百倍もの恵みに変えてくださるのです。ただ、極論を言えば、イエス様にとって五つのパンと二匹の魚というのは、必ずしも無くてはならないものではなかったと思います。それらのものが無かったとして、イエス様なら五千人に食事を与えることはできたでしょう。しかし、私たちにとって、献げるということは本当に大切なことだと思うんです。これは決して間違っているというわけではありませんので気になさらないでいただきたいんですが、献金のお祈りの時に、「献金をお返しします」と祈られる方がおられます。それは、すべての物は神様からいただいたものだからという意味でそのように祈られるのだと思うのですが、やはり本来は「お献げする」だと思うんです。それは、献身ということでもあるからです。献身というと、何か神学校にでも入って牧師や宣教師になるというイメージが強いかもしれませんが、パウロは次のように言っています。

『あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です』(ローマ12:1b)。

私たちの日常生活の中でからだを神に献げるというのは、具体的には、自分に預けられた時間やお金などを神に献げるということでしょう。そして、それらのことこそ、私たちにふさわしい礼拝であり、脚注にあるように、私たちにとっての理にかなった霊的な礼拝なのです。

2、強風が吹いて

さて、今朝お読みした物語は、そのパンの奇跡の後に起こったことなんですが、15節を見ると、イエス様は、奇跡を見た人たちが自分を王にするために連れて行こうとしているのを知って、再び一人で山に退かれた、とあります。それは、人々が勝手に、ご自分が来られた目的とは違った方向へと自分を担ぎ出そうとするのをはっきり拒否するためであったのと同時に、弟子たちへの配慮もあったのではないかと思います。弟子たちは、イエス様のなさる力強い奇跡を目の当たりにして、鼻高々だったのではないでしょうか。「どうや!俺たちの師匠は凄いやろ!」と。イエス様は、そんな弟子たちを湖へと送り出されました。18節に、強風が吹いて湖は荒れ始めた、とあります。だいたい、聖書で「湖」「海」というのは、不安(な世界)を意味しています。そこでは、神の存在は忘れ去られ、イエス様が来てくださったとしても、それは幽霊のようにしか見えません。たとえ神の愛や十字架の愛が語られたとしても、ことばだけが空しく空回りするような世界です。そんな世界に弟子たちは追いやられたのです。パンの奇跡を見て感激し、鼻高々だった彼らも、そんな現実の世界に投げ出された時、どうだったでしょうか?恐れと慄きしかなかったのです。私たちも、教会の礼拝で、或いは聖書を読んで感激し、気分が高揚して、「ハレルヤ!」と出かけて行っても、お金や権力がものを言う現実の世界に飛び込んで行くと、たちまちそんな気持ちは消え失せ、やっぱりお金とか地位とか権力がなければだめなんじゃないか。「霞を食って生きていけるわけじゃあるまいし」と思ってしまうのです。
イエス様は26節で、群衆がわたしを捜しているのは、しるし(奇跡)を見たからではなく、パンを食べて満腹したからです、とおっしゃいました。それは、彼らはまた、パンを、この世のご利益をもらえると期待して自分を捜してるんだということですね。もちろん、今の私たちには、当時の人たちの食糧事情と言うか、生きていくために食べなければならないということの切実さが、どれほどのものであったかということは、想像することさえ難しいと思います。イエス様はそんな人たちに向かって言われたのです。

『なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい』(ヨハネ6:27a)。

そして、

『それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです』(同6:27b)と。

<結論>

今朝の開会聖句もイエス様のおことばです。

「わたしだ。恐れることはない。」(ヨハネ6:20b)。

ここで「わたしだ」と訳されていることばは、ギリシア語では「エゴ・エイミー」と言います。知っているという方も多いのではないでしょうか。「ヨハネの福音書」には、このことばが繰り返し出てきます。それには、「道」とか「いのち」とか「パン」などの、所謂「補語」を伴ったものと、そうではないものがあります。今朝のことばは後者の方なんですが、このことばは、旧約で言えば、「出エジプト記」3章14節のことばと同じなんです。ひとつ前の13節からお読みします。

『モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」』(出エ3:14~15a)。

神の名前(神名)としては、聖四文字と言われる「ヤハウェ(アドナイ)」がよく知られていますが、この箇所で、神は、モーセからの質問に対して「わたしはある」とお答えになりました。それは、わたしは過去に存在し、現在も存在し、未来永遠に存在するという意味であり、その自存性、独一性、永遠性を表すことばだと思います。今年の1月2日のメッセージでもお話ししましたが、ヨハネが強調するのもその一点です。つまり、イエス・キリストの神性です。イエス様こそ、真の神であるということを、ヨハネは、この「エゴ・エイミー」というギリシア語で伝えようとしているのです。その上で、今朝の最後にあったイエス様のことばに注目したいと思います。

「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:29b)。

イエス様は、人々が、「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか」と問うたことに対して、そのように答えられました。
先週のメッセージで、失敗を恐れず、それぞれに預けられたタラントを用いて、神に、イエス様にお応えしましょう、とお話ししました。ただ、誤解しないでいただきたいんですが、私たちはすぐに、自分が何を行ったか、ということばかり、気にしてしまいます。しかし、本当に大切なことは、私はあの人に伝道しましたとか、あの人にも愛のわざを為しましたとか、そういうことではなくて、「イエス様を信じることこそ、神のわざ」である。つまり、自分は何を為すべきかということの前に、自分は神の御前でどうあるべきか、ということではないでしょうか。私たちの信仰の原点とも言うべき本当に大切なことは、「To do」ではなく「To be」なのです。祈りましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF93KB)

新聖歌

開会祈祷後:201番、メッセージ後:301番

聖書交読

詩編88篇 1~18節

2022年教会行事

1月19日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10 時~11時)

#54-2799

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