イエスの平安

メッセージ

<ヨハネの福音書 14章15節~27節>
信徒:K

開会聖句

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

<ヨハネの福音書 14章27節>

メッセージ内容

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 メッセージ原稿を公開しました。 
 

<はじめに>  
・今月で一つ歳を取りました。私の父は小さな個人商店を経営していて、65歳で店を閉めました。私も弟も、その年頃にはすっかりリタイアしているので、長くまでよく働いたんだなあと思います。私たちは時々、「あなたも歳をとったら分かるようになるよ」ということを言ったり、言われたり。確かに、その年齢になったときに、健康や立場など、ようやく実感できるようになることがあります。イエスさまは弟子たちを身近において、多くのことを教えられましたが、彼らは出来のいい生徒ではありませんでした。弟子の足を洗いながら、「今はわからないが,後でわかるようになる。」と言われたりもしました。では、イエスさまの教えは時間が経てば自然に分かるようになるものなのでしょうか。確かに、時間は必要ですが、そうではなかったと思います。他の何かが必要でした。今日はその何かのお話をします。主題は「イエスの平安」です。

<本論>
Ⅰ.イエスの平安は、助け主である聖霊が与えられることで実現する

先ず14章最後の箇所に目に留めたいのですが、

30~31節「わたしはもう多くは話しません。…立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」

ここを読むと、イエスさまの話は一旦ここで終わった感がします。告別説教はこの後15,16章と続きますが、おそらく、イエスさまはこの長い説教を一気にこの場面で話されたのではなく、著者ヨハネが編集したのでしょう。(例、マタイの山上の説教)。イエスさまがご自分の話を一区切りつけられたのなら、それは一つの話題が終わったということになります。では一つの話題とは何だったのでしょう。

14章が「あなたがたは心を騒がせてはなりません。…」

で始まったように、イエスさまが父のところに行かれ、不在になることに心を騒がす弟子たちの問題でした。すでに、「また会える」と「もう父を知っている」という励ましを与えられましたが、さらにここでは、「助け主を与える」と約束されます。その方は、今後不在になるイエスさまと違って、弟子たちといつまでも共にいてくださると言われます。

もうすぐイエスさまの活動は弟子たちに引き継がれますが、イエスさまの公生涯の印象的な出来事、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことを思い起こしましょう。そのとき、イエスさまは天が開けて御霊が鳩のようにご自分に降ったのを見、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と言う声を聞きました。4つの福音書がこの出来事を記しています。正確には、ヨハネ福音書では、洗礼を授けたバプテスマのヨハネの目撃証言として記され、声があったことは記されていません。ここから私たちが気づかされることは、イエスさまは父からの確信と聖霊の助けを得て、宣教を始められたことです。イエスさまは神さまでしたが、その力を制限されてましたし、私たち人間と同じ弱さを持ち、何度も誘惑(もっと手っ取り早い、苦しくない方法があると心が囁く)に遭われました。イエスさまには弟子たちの今後の苦難が手に取るように分かるのです。ですから、自分のときと同じように、父に聖霊を弟子たちにも送ってくださるように願われました。

16~17節「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は…。」

「助け主」は真理の御霊と紹介されます。ギリシャ語で「パラクレートス」。パラは「そば(近く)に」、クレートスは「呼ばれた(召された)者」で、「そばにいるために呼ばれた者」のこと。脚注(援助者、とりなし手)。新約聖書で5回使用され、4回が14~16章に、1回は

ヨハネの手紙Ⅰ2:1「しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには御父の前で取りなして下さる方、義なるイエス・キリストがおられます。」

にあります。ここでのパラクレートスは私たちのために取りなして下さるイエスさまのことです。「もう一人の助け主」とあるように、助け主は二人います。イエスさまが不在になるので、ともにいてくださるもう一人の助け主をお願いしているのです。

聖霊のことは難しいところですが、一つの誤解は「満たされて」ということばから、単なるエネルギーや力のように考えることでしょう。ガソリン満タン、充電完了のように。しかし、イエスさまはこの助け主を「彼」と呼ばれてますから、聖霊は人格的な存在で、互いに関わろう、関係をもちたいという方です。その関わり方は、「側に呼ばれた者」という名にふさわしく、ぐいぐい引っ張るより、謙虚に寄り添うというものです。個人プレーされる方ではなく、チームプレーをされる方と言っていいでしょう。もし私たちの内に住まわれる聖霊が自己主張を強くされたら、私たちは自由ではなく支配されることになります。例えば、私の説教原稿の準備ですが、「出来た」と喜び、「聖霊の助けを感謝します。」と言いつつ、読み直して、修正することの連続です。もし聖霊の働きが力強く明確なものであるなら、こんなにやり直しする?と思っています。聖霊の働きは色々だと思いますが、私は悩み迷いながらというプロセスの中で、時には失敗も経験しながら、でもふさわしい方向に導き、後押ししてくださる、そのようなものかなと思います。確かなことは、イエスさまはご自分もそうであったように、父と聖霊とタッグを組んで、弟子たちのこれからを支えるおつもりということです。心を騒がせる弟子たちに与えられる最大の助けは、聖霊が与えられることで、この助け主によって、弟子たちにイエスの平安が実現します。 では、もう一つを見ましょう。

Ⅱ.イエスの平安は、この世が与えるものとは違い、わたしが残す平安である

開会聖句は、

27節「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。…」

です。心騒がす弟子たちに対し、「わたしの平安を与える」と言われ、そのための聖霊の働きが、

26節「しかし、助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」

です。この平安には2つの特徴があり、まず、世が与えるのと同じようでないのです。最初に、イエスさまの教えは時間が経てば分かるだろうかと問いました。記憶力は個人差がありますが、12人だと殆どのことを思いだせるかも。でも、聖霊の働きはイエスさまのあんなことこんなことを思い出させる以上のことで、神の遣わされたメシアはナザレ人イエスで、彼は神であったことを教えることでした。弟子たちがイエスさまのことばとわざを思い起こし、聖霊の助けで、たどりついた結論は、十字架で殺されたイエスさまはメシアで神であったことでした。ペンテコステの日に、ペテロはイエスさまについて大胆に人々に説き明かし、多くの人が信じました。

ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」

は、人の理解を超えたことでした。神の像を刻むことや名前を口に出すことも禁じられていたユダヤ人には超えられない壁でしたし、時代の先端を行く知識人であったギリシャ人には天地をひっくり返すほどのニュースでした。「世はこの方を見ることも、知ることもできない。」聖霊は世に受入れられない方です。だから、イエスの平安は世が与えるものと違うのです。

では、もう一つの特徴ですが、それは、「残された平安」です。私たちはこの世に色んな物を残して死にます。見えるものも見えないものも。イエスさまが残された平安とは、イエスが地上で持っておられたもの、体験されたものだと思います。イエスさまの公生涯はこの世との苦しい戦いでしたが、そんな中でも慰めや喜びを味わい、力を得て生涯を全うされました。イエスさまは何度も「わたしと父は一つだ」と、その親密さを話しておられたように、父と聖霊との関係の中で生き、それを弟子たちにも残すと言われます。でもそれだけではなく、まだあります。多くの弟子たちが離れ去ったとき、「あなたがたも離れていきたいのですか」と問われました。弟子はノーと言いました(6章)。十字架が迫る不安の中にいるイエスさまに、マリヤは香油を注ぎました。イエスさまは「わたしの葬りのため」と喜ばれました(12章)。空腹で疲れていたイエスさまを元気づけたのは、サマリヤの女性との会話でした。弟子たちがさぞイエスさまは空腹だろうと心配しましたが、「あなたがたの知らない食物がある」と言われました(4章)。私たちの存在がイエスさまを死に追いやりました。でも、そんな人間、特に社会的弱者、罪人とされた人たちとの関わりは、イエスさまにとって、ひとときのオアシスのようなものだったのではないかと思うのです。イエスさまは人との関係を喜ばれ、支えられていたのです。ですから、残された平安とは、神とだけでなく、人との関係、人間関係の中でも得られるものだと思います。

<終りに>

では、最後に一つ。どんな人間関係の中に、その平安はあるのでしょう。それは、神のみこころがなされている人間関係にあると思います。神の願いは、人が共に助け合って生きていくこと、互いに大切にし、尊重しあうことです。ですから、クリスチャンであっても、支配や抑圧という目に見えない暴力のあるところには、イエスさまの平安はないでしょう。イエスさまも、もう一人の助け主も人を大切にし、その人の個性、持ち味を尊重する方です。私たちも御霊に満たされーともにいてくださる聖霊に助けられて、それに倣いたいと思います。

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新聖歌

開会祈祷後:137番、メッセージ後:247番

聖書交読

詩編142篇 1~7節

2023年教会行事

3月29日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

#55-2861

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