亡国の預言者

メッセージ

<エレミヤ書 21章8~12節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

(主は)弓を引き絞り、私を矢の的のようにして、矢筒の矢を私の腎臓に射込まれた。

<哀歌 3章12~13節>

メッセージ内容

<序論>  
・エレミヤが預言者としての召しを受けたのは、あの善王と言われたヨシヤの時代でした。

『ベニヤミンの地、アンアトテにいた祭司の一人、ヒルキヤの子エレミヤのことば。このエレミヤに主のことばがあった。ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことである。』(エレミヤ1:1~2)。

ヨシヤ王が即位したのは紀元前640年ですから、エレミヤが召しを受けたのは紀元前627年ということになります。そこから43年間。つまり紀元前627年~583年までが、エレミヤが預言者として活動した期間です。北イスラエルはすでに亡んでいますが、南ユダもバビロンによって紀元前586年に亡ぼされます。ですので、エレミヤの時代というのは、まさに南ユダ王国の最末期、「亡国」の時代であったと言えると思います。そして、今日のテキストは、南ユダ最後の王ゼデキヤの時代の出来事です。

<本論>
1、いのちの道と死の道

「エレミヤ書」は「エゼキエル書」などと異なり、日付のある事件や預言でさえ年代順には並べられていません。ですから、難解であるとも言えます。これは、弟子のバルクが、エレミヤのことばを口述筆記で書き記したという事情よるものと考えられています(エレミヤ36:4)。ただ、この巻物も、エホヤキム王によって焼かれてしまうので、バルクは、再度、書き直すことになるのですが(同36:32)。
今日の21章は、先程も申し上げましたように、南ユダが滅亡する直前の出来事です。その時の具体的な状況は、「Ⅱ列王記」25章に記されています。

『その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。こうして都はゼデキヤ王の第十一年まで包囲されていた。』(Ⅱ列王記24:20b~25:2)。

この後の記述を見ると、この時、バビロンは、所謂「兵糧攻め」を仕掛けてきたようです。まさに、ゼデキヤ王とエルサレムの住民たちにとっては絶体絶命のピンチ。それで、ゼデキヤは、家来たちをエレミヤのもとに遣わすのです。

『主からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシェフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、「どうか、私たちのために主に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。』(エレミヤ21:1~2)。

ゼデキヤ王は、この時から約100年前の出来事。ヒゼキヤ王の時代に、アッシリアの王センナケリブが同じようにエルサレムに攻めて来た時、神が一夜にして敵の軍勢を打ち滅ぼして救ってくださったという奇跡の再来を期待していたのでしょう(Ⅱ列王記19:35)。
しかし、エレミヤからの返事は(それは神からの返事でしたが)、あのヒゼキヤ王の時のようではありませんでした。それは、3節以降のエレミヤの言葉を読んでいただければお分かりいただけると思います。そして、8節。

『「あなたは、この民に言え。『主はこう言われる。見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。』(エレミヤ21:8,9)。

2、 涙の預言者

バビロンに降伏し、ユダの国が亡びることこそ、神様のみこころであり、いのちの道である、ということです。自分の国が亡びる。あの、神様を全く信じてもいない異邦人の国バビロンによって亡ぼされることが、神様のみこころである。このことを、自分の同胞に伝えなければならなかったエレミヤの苦悩は、どれほどのものであったでしょうか。エレミヤは、「涙の預言者」とも呼ばれていますが、今日の開会聖句とさせていただいた「哀歌」のみことばに、彼の苦悩が集約されているように思います。人間は誰しも、耳が痛い話を聞きたいとは思いません。そして、語る側も、できるならば、聞き心地の良い話、相手が喜ぶようなことを語りたいと願うものです。しかし、預言者にとって何よりも大切なこと、その使命とは、自分が語りたいことを語るということではなくて、神様からのみことばを語るという、その一点にあります。そのことによって、どれだけ自分が逆境に立たされるようなことになったとしてもです。「エレミヤ書」に繰り返し出てくる特徴的な言葉があります。それは、『主はこう言われる』という言葉です。エレミヤは、主が語られた言葉をそのまま伝えるという、預言者としての使命に誰よりも忠実な人であり、また、そのことのゆえに、「国賊」「売国奴」と呼ばれるほどの苦悩を、誰よりも味わった人でもあったと思います。

自分はどうかな、と思わされます。毎週、礼拝の説教で、神様からの言葉を皆さんにお伝えできているかな、と我が身を振り返らされます。もちろん、自分はエレミヤではありませんし、旧約の時代と今の時代は違うと思います。しかし、正直に申し上
げまして、つい自分の語りたいことを語っているのではないだろうか、と思わされる時もあります。新約聖書の「ヤコブの手紙」に、

『私の兄弟たち。多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。』(ヤコブ3:1)

というみことばがあります。恐ろしいですね。ただ、それと同時に、エレミヤはエレミヤの人生を生きて(生かされて)、その時代や置かれた場所で、神様からの言葉を語った。それと同じように、私も、この時代に、この場所に生かされて、そして、自分の人生において神様がどのように語ってくださったかということを受け止め、語ってゆく。結局、それ以外できないし、それが、みことばを語るということかな、とも思わされます。そして、そのためにも、何よりも大切なこと、それは、本当に基本的なことですが、私たちが生かされている今の時代、新約の時代には、聖書を通して神様のみことばを聴くということではないかと思います。私たちの教団の伝道委員会が出している「MB伝道ニュース2018年初秋版」に、河内長野教会の石賀満師の次のような提言がありました。

「私は今、聖書を読むこと(聖書通読)、特に声に出して、音読することを多くの人に勧めています。私は、毎日1時間以上、聖書を音読します。声に出して、聖書を読むと、みことばの中で、イエス様に出会い、イエス様と交わることができます。また、神を知るための知恵と啓示の御霊(エペソ1:17)も与えられます。私は毎日、次のように祈ります。「みことばと一体になり、みことばと同じ人格になり、みことばにしっかりつながって、主との親密さを回復させてください。アーメン。」

<結論>
そして、最後に、今朝、皆さんと覚えたいこと。それは、聖書に啓示された神様のみことばは、決して「亡国」で終わってはいない。つまり、絶望で終わりではないということです。

今日の開会聖句にさせていただいた「哀歌」は、「エレミヤ哀歌」とも呼ばれています。それは、ギリシア語訳の旧約聖書(七十人訳聖書)の1章1節に、

「イスラエルが捕囚となり、エルサレムが荒廃させられた後、エレミヤは座して泣き、エルサレムのために哀歌を歌って言った」

という前文があるからだそうです。近年の研究では、エレミヤが著者であることについては、断定しがたいとする学者が多いそうですが、とにかく、「バビロン捕囚」という国家的悲劇を目の当たりにし、嘆き悲しんだ人が歌ったものだということは、間違いないと思います。また、「哀歌」は、ヘブル語のアルファベットに従って韻を踏む「詩」の形式になっています。そして、その最高峰とも言えるのが、この3章です。

3章の前半は、文字通り「嘆き悲しむ歌」「哀歌」と呼ぶにふさわしい内容です。

『私は、主の激しい怒りのむちを受けて苦しみにあった者。』(哀1:1)

から始まり、この著者の苦悩が延々とつづられています。その苦悩が最高潮に達するのが、今日の開会聖句の言葉だと思いますが、ただ、その空気は、25節以降で一変します。

『主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。主の救いを静まって待ち望むのは良い。人が、若いときに、くびきを負うのは良い。』(同3:25~27)。

私も、初めて気づかされたのですが、前半、つまり24節までは、『私』という言葉が繰り返し出てきます。しかし、25節以降にはそれがありません(46節以降で、また『私』という言葉が出てきますが、それはこの著者の心が揺れ動いていることを表していると思います)。つまり、この著者は、私は、私は、私は、と自分のことばかりに目が奪われていた時には、神様の恵みに気づくことができなかった。しかし、主は、という言葉が主語となった時、初めて神様の大きな恵み(ご摂理)に気づくことができた、ということではないでしょうか。ある本に、次のような一文がありました。

「神のない世界を平面とすると、神を信じる世界は立方にたとえられる。それは人間の努力や営みだけの世界ではなく、上からの神の介入の世界である。そのゆえに人間的にどんなに絶望の状態にあろうとも、それで終わることはない。そこに神が介入してくださるとき、世界は一瞬にして明るくなるのである」。

祈りましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF112KB)

新聖歌

開会祈祷後:191番、メッセージ後:366番

聖書交読

詩編 65篇1~13節

2018年教会行事

10月17日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#50-2628

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