貧しい人たちの幸い

コロナの感染拡大が続いていますが、千里教会では 3 密を避けるため、当面の間 2 階の礼拝堂で短時間の礼拝を行うこととします。
今週はお休みですが、体調のすぐれない方、ご不安な方は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。

メッセージ

<ルカの福音書 6章17~26節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。

<ルカの福音書 6章48節>

メッセージ内容

Youtube動画

メッセージ動画公開:1/10 PM 17:35

メッセージ原稿は、家庭礼拝用として事前公開します。
 
<序論>  

・今日の箇所は「マタイの福音書」5章以降にある有名な「山上の垂訓」の並行記事なんですが、

17節の『平らなところ』

ということばから「平地の説教(垂訓)」と呼ばれています。ユダヤの伝統では、人間が神と出会う場所は、普通、山(ハル)とされていますが、この「平らなところ」ということ自体、ルカらしいと言えるのかもしれません。

<本論>
1、聖書解釈の難しさ

「マタイの福音書」の「山上の垂訓」の冒頭のことばは、皆さんもよくご存じの通り

『心の貧しい者は幸いです』

ということばです。聖書学者の中には、イエスさまが言われた元々のことばは『貧しい者は幸いです』であったが、そのことばに、著者であるマタイが『心の』という注釈を書き加えたのだ、と考える人もいます。その真偽のほどは私には分かりませんが、ただ、マタイのように、『心の』(ギリシア語では「プニューマ」=霊)という場合には、解釈する上での幅があると言いますか、色々と思い巡らすこともできるのかもしれませんが、ルカのような「貧しい人たちは幸いです」となると、余りにもストレートすぎて、イエス様はなぜ、そんなことを言われたのだろう?解釈に苦しみますよね。元々、福音書にはとても難しい問題があるんです。手紙の場合には、基本的に、著者の意図がそのままストレートに書かれているわけですが、福音書にあるイエス様やその他の人たちのことばは、実際には、アラム語という、当時のユダヤの話しことばであったと思われます。それを、これもルカが直接聞いたわけではなく、誰かに取材し(冒頭にそのように書かれています)、編集して、その上でギリシア語に翻訳して書いているわけです。更に、私たちが読んでいるのはそれを日本語に翻訳したものですから、例えば、今日のようなイエス様のことばを私たちが正しく解釈するということは、本当に何か途方もないことをやっているような気がしてきます。

2、ルカが伝えたかった福音

何か言い訳のようになってしまいましたが、その上で、

『貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです』

ということばをどのように解釈するかということなんですが、一口に「貧しさ」と言っても色々あると思います。ただ、この箇所の『貧しい(プトーコイ)』というギリシア語は、生易しいレベルの貧しさのことではないんです。このギリシア語は、無一文、道端で物乞いをするほどのどん底の状態、極度の貧困を意味することばなんです。更に、今回、初めて気づいたことなんですが、マタイとルカとを比べてみると、マタイでは、このことばの後半が「天の御国はその人たちのものだからです」と三人称(彼ら)になっているのに対して、ルカでは「神の国はあなたがたのものだからです」と二人称になっています(ただ、マタイも11節以降では「あなたがた」と書いていますが)。それは、イエス様は、今、自分の目の前で話を聞いている人たち。あなたがたの中には、無一文の人、飢えている人、泣いている人たちが大勢いるだろう。そんな人たちに向かって、「あなたがたは幸いだ。なぜなら、神の国はあなたがたのものだからです」とおっしゃったということですよね。その事実をルカは書き残しておきたかったのではないでしょうか。「ルカの福音書」には一つの特徴があると言われています。それは、貧しい人、女性、子どものような、当時のユダヤ社会で弱い立場にあった人たちを神がかえりみられるという。もちろん他の福音書でもそれは言えるのですが、ルカではそれがよりはっきりしています。それはやはり、彼がイエス様の「福音」をそのように理解していたからだと思うのです。ユダヤの社会では(ユダヤ以外でもそうかもしれませんが)、貧しい人や病人、また異邦人もそうですが、そのような人たちは、神から見捨てられ、愛される資格のない人たちだと思われていました。また、異邦人を除いて、本人たちもそのように思い込んでいたと思います。それが常識であったからです。けれども、神はそんなこの世の常識をひっくり返すために、ひとり子であるイエス様を遣わしてくださった。それが、ルカが伝えたかった「福音(良い知らせ)」だったのではないか、と私は思うのです。ですから、この世で富んでいる人、満腹している人、笑っている人、人々から称賛を受けている人たちは哀れであると。それは、そのような人たちの多くが、自分にはそれだけの資格がある、と思い込んでいたからですよね。その代表が福音書ではパリサイ人や律法学者なんですが、彼らは、この世では幸いなのかもしれないけれども、神の国の幸いに預かることはできない、とイエス様はおっしゃったんです。

<結論>

そして、今日の開会聖句は、26節以降も続く「平地の説教」の結論部分なんですが、「マタイの福音書」の「山上の垂訓」と同じような結論になっています。それは、二つの家のたとえです。イエス様は、色々なところで、繰り返し、何度も何度もその話をされたのではないでしょうか。47節からお読みします。

『わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人がみな、どんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。しかし、聞いても行わない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家はすぐに倒れてしまい、その壊れ方はひどいものでした。」』(ルカ6:47~49)。

ここで注目すべきは、やはり

『わたしのことばを聞き、それを行う人』

ということばではないかと思います。イエス様が「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです」と言われたら、それを何か道徳のようなものとして聞くのではなく、自分に語られたものとして本気になって信じ、その通りに生き行く。皆さん、いかがでしょうか?そこが一番難しいと言うか、私たちがいつも挫折してしまうところですよね。そんな私たちですが、最後に、「ちいろば牧師」の榎本先生が次のような一文を書いておられましたので、それをご紹介して、今日の説教を閉じたいと思います。

「一生懸命聖書を読み、みことばを信じて従っていくことは、不信との闘いである。信仰するということは不信仰との闘いである。人はみな神を信じられない自分と毎日闘っているのである。どんな人でも毎日毎日、神を信じられない自分と闘っているのである。見えないところのものをどうして信じていくことができるだろうか。だから私は、信仰の深い人ほど、自分が不信仰な者であることを知っていると思うのである」。

祈りましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF83KB)

新聖歌

開会祈祷後:20番、メッセージ後:453番

聖書交読

詩編 56篇 1~13節

2021年教会行事

1月13日(水) オリーブ・いきいき百歳体操

#53-2746

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