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メッセージ
<ルカの福音書 13章1~9節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
番人は答えた。『ご主人様。どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』
<ルカの福音書 13章8~9節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:2/13 PM 16:00
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「ルカの福音書」からの6回目です。先週のメッセージでパリサイ人について少し詳しく取り上げましたが、11章後半には、そのパリサイ人や律法の専門家たちを厳しく非難しておられるイエス様の姿が描かれています。その結果、11章53節。
『イエスがそこを出て行かれると、律法学者たち、パリサイ人たちはイエスに対して激し敵意を抱き、多くのことについてしつこく質問攻めを始めた。彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと狙っていたのである』(ルカ11:53~54)。
ただ、一般の人たちは、イエス様のことを熱狂的に支持していたようです。12章1節をご覧ください。
『そうしているうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏みあうほどになった』(ルカ12:1a)。
今日の箇所はそんな状況の中での話ですが、四つの福音書の中でもルカだけが書き残している話です。
1、人じゃない。あなたは…
弟子たち、そして、当時、イエス様を支持していた群衆の多くは、イエス様はきっと都エルサレムですごいことをなさろうと考えておられるのだろう。自分たちの真のリーダーとなって、あのダビデ王のように、この国を外国の支配から救ってくださるのだろう。そして、特に弟子たちは、その時には、自分たちも幹部の一人として権力をふるうことができるのではないか。そのように思っていたのではないでしょうか。しかし、イエス様の思いは全く違っていました。今日の13章もそうですが、そのようなイエス様と周りの人たちとのズレというか、ギャップが、この旅の間中ずっと続いてゆくんです。
具体的なことは分かりませんが、今日の箇所でイエス様に報告しにやって来た人たちというのも、恐らく、今、申し上げたような人たちであったと思われます。そんな彼らが報告してきた内容が1節、
『ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた』
ということでした。ピラトというのは、この後、イエス様が十字架に架けられる場面に登場する、あのポンテオ・ピラトのことですが、彼はローマから派遣されたユダヤ総督でした。そのピラトが、ガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちの献げるいけにえに混ぜた?一体、どういうことなんでしょうか?このことばだけでは分かりにくいですよね。イエス様もそうですが、弟子たちの大部分はガリラヤ人でした。一説によると、ガリラヤ人というのは、気性は純朴だが激しやすく、エルサレムなど南のユダヤ人からは、いつも騒動を起こす人たちと見られていたようですが、ここで言及されているガリラヤ人たちは、巡礼か何かのためにエルサレムを訪れた際に都の治安を乱すような騒ぎを起こして、総督ピラトの命令で鎮圧された人たちであったみたいです。ですから、「そんな事件がついこの間、エルサレムであったんですよ。イエス様、ご存じでしたか?」と、ある人たちがご注進に来たんでしょう。そんな彼らに対して、イエス様は次のようにお答えになりました。
『「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」』(ルカ13:2b~5)。
このイエス様のことばから推察すると、どうもこの報告をしにやって来た人たちは、そんな事件があったんですよ、と報告しただけではなく、「あのガリラヤ人たちは大きな罪を犯して、神から天罰を受けたのでしょう。きっとそうですよ。ねえ、イエス様」みたいなことを言ったのではないでしょうか。しかし、イエス様の答えは、そんなことはないんだ、ということでした。さらにイエス様は、もう一つ別の事件についても言及しておられます。それは、『シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人』という事件です。シロアムの池というと、「ヨハネの福音書」9章冒頭にある、生まれつき目の見えない人の目を開かれたという奇跡がよく知られていますが、シロアムの池は、エルサレムを囲む城壁の南の城壁に近い場所にあった小さな池でした。その城壁の上にあった塔が、何かの原因で倒れて、その結果、十八人もの人の命が失われた。そんな事件が当時のエルサレムであり、大惨事として人々の間で噂になっていたのでしょう。イエス様は、「ヨハネの福音書」の奇跡の場面でも、この人が盲目で生まれたのは、この人が罪を犯したからですか、それとも両親ですかと、本人の前で無神経に尋ねる人たちに向かって、次のように言われました。
『「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです』(ヨハネ9:3)
そして、その人の目を開けてくださいました。今日の場面でも、イエス様は同じよ
うに答えられたのです。彼らも天罰を受けて死んだのではないんだと。そしてさらに、
『「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」』(ルカ13:5)
あなたがたは自分のことは横に置いておいて、あの人たちはどうなんですか、この人たちはどうなんでしょうと、まるで評論家のように人のことを論じているけれども、一番問題なのはあなた自身ではないのか。イエス様は、「人が問題ではない。あなたが問題なのだ。大事なことは、人がどうしたこうしたということではなく、あなた自身が悔い改めることではないのか」とおっしゃりたかったのだと、私は感じました。
<結論>
そして、その後、イエス様は、あるたとえを話されました。
『「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』』(ルカ13:6~7)。
イスラエルでは、ぶどう園にいちじくの木を植えるというのは珍しいことではないそうですが、ただ、このいちじくの木は、三年もの間、実がなりませんでした。そのことで、切り倒してしまえと怒る主人に対して、ぶどう園の番人は苦しい弁明をしています。今日の開会聖句です。
『『ご主人様。どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」』(同13:8~9)。
この番人の姿こそ、イエス様の姿ではないでしょうか。そして、いちじくの木は、イスラエルを表していると言われています。ただ、それは同時に、この私のことでもあるなぁ、と強く思わされました。この番人は、もし、来年も実を結ばなければ、このいちじくの木を切り倒してください、と言っていますが、私は、この番人は、来年になれば、また同じような弁明を繰り返すのではないかと思わされました。もし、そうでなかったら、私みたいな者はとっくに切り倒されていたと思います。何年も何年も、くる年もくる年も、イエス様は私のために神様に弁明をしてくださっている。ある方は、このたとえを読んで、「自分に対する神様の愛の迫りを感じる」と書いておられました。神様の愛の迫り。信仰生活も長くなってくると、ともすれば、神の愛、赦しというものに鈍感になってしまう、何か当たり前のようになってしまう。皆さんは、そんなことはないでしょうか?
イエス様が十字架に架けられ、亡くなられた時、その亡骸の下げ渡しをピラトに願い出た人がいました。アリマタヤのヨセフという人です。彼はイエス様の亡骸をきれいな亜麻布に包み、まだだれも葬られていない自分の新しい墓に埋葬した、と聖書は記しています。アリマタヤのヨセフはユダヤの有力な議員で金持ちでした。そして、イエス様の隠れた弟子の一人でした。ペテロを始めとする弟子たちは、とっくにイエス様を見捨てて逃げていたのに、なぜ彼はそんな一文の得にもならないようなことをしたのでしょうか?それは、彼が、どうしても、あのイエス様の亡骸を、十字架の上に放っておくのは忍びない、申し訳ない、と思ったからではないでしょうか。私たちも、この私のために、今日も明日も、必死に弁明を続けてくださるイエス様に、真心からお応えする者でありたいですね。祈りましょう。
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省略します。
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#53-2751
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