信仰と救い

コロナの感染拡大が続き、1月14日から大阪府を対象地域とした緊急事態宣言が発出され千里教会では 3 密を避けるため、当面の間 2 階の礼拝堂で短時間の礼拝を行うこととします。
体調のすぐれない方、ご不安な方は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。

メッセージ

<ルカの福音書 8章43~48節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

<ルカの福音書 8章48節>

メッセージ内容

Youtube動画


動画公開が遅れて申し訳ありません。メッセージ動画公開:1/17 PM 18:22

メッセージ原稿は、家庭礼拝用として事前公開します。
 
<序論>  

・今日の箇所は、所謂「長血の女」と呼ばれている一人の女性がイエス様によって救われた奇跡の記事です。「マタイ」と「マルコ」に並行記事があります。

<本論>
1、長血の女

彼女の正式な病名は分かりませんが、註解書には、「血が流失する婦人病。レビ記15章25~30節によると、このような病気の女性は汚れた者とみなされた」と書かれていました。そして、それは本人だけでなく、彼女が触れるもの、及び彼女が触れたものに触れる者も汚れた者となる、とされていたそうです。何か感染症のような、まさに今の「新型コロナ」の騒ぎを連想してしまいますが、もちろん、この汚れというのは、宗教的な意味での汚れということであり、「新型コロナ」のように、感染者と接触することによって実際に同じような病気に感染するということではありません。ただ、その苦しみ、社会からの疎外感というのは、どれほどのものだったのか。彼女は十二年間も「汚れた者」として生きてきました。その上、財産すべてを治療のために費やしたのに、だれにも治してもらえなかった、とルカは記しています。ですので、恐らく藁にも縋る思いで、周りの人たちからの視線を気にしながら、本当に勇気を振り絞ってイエス様の側近くまでやって来たのでしょう。そして、彼女がイエス様の衣の房に触ったその瞬間、奇跡が起きます。十二年もの間、彼女を苦しめ続けてきた出血が止まり、彼女は癒されたのです。この房というのはヘブル語で「ツィツィヨット」と言うそうですが、ユダヤ人の男性は衣の四隅に必ずつける決まりになっていました。今でも超正統派のユダヤ教徒はそのような房を付けているそうですが、それは「民数記」15章に次のように書かれてあるからです。

『主はモーセに告げられた。「イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである』(民数15:37~39)。

神学校で学んでいる時、ユダヤ人伝道に熱心な方から教えていただいたんですが、この房にはモーセが神から受けた613の戒めにちなんで613の結び目がつけられているのだそうです。ですから、この四つの房は神様のみことばを象徴している、とその方はおっしゃってました。つまり、長血の女はみことばに触れたことによって救われたということですね。「なるほど!うまいこと言うな」と思わされたのですが、今日、皆さんにお話ししたいことはそういうことではありません。開会聖句のイエス様のことばをもう一度ご覧ください。イエス様はこの女性に、『「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」』と言われました。この、あなたの信仰があなたを救ったとは、どのような意味なのでしょうか?何か、あなたの信仰心によって、或は、あなたの信仰が素晴らしいので、あなたは救われた、と言っているようにも聞こえます。

2、あなたの信仰があなたを救った

実は、この箇所のイエス様のことばなんですが、以前の訳から少し変わっているんです。以前は次のように訳されていました。

『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい』【第三版】。

そして、【第三版】では『直したのです』ということばに※印があり、脚注に(直訳「救ったのです」)と書かれていました。つまり【2017】では直訳の『救ったのです』が採用されたんですね。なぜ、どんな理由でそう変わったのかは分からないんですが、「ルカの福音書」ではこれと全く同じことばが、この箇所も含めて4回、記されています。もちろん、すべてイエス様のことばです。一つ目は、少し前の7章50節。一人の罪深い女がイエス様の足を自分の涙でぬぐい、口づけして香油を塗ったという場面です。そして、今日の箇所が二つ目で、三つ目は17章19節。ツァラアトに冒された十人がイエス様に癒していただいた後、そのうちの一人だけがイエス様のもとに戻って来た場面です。そして最後の四つ目は18章42節。エリコの近くで物乞いをしていた盲人の目をイエス様が癒された場面です。すべて原典のギリシア語では同じことばが使われています。このことばと同じ表現は「マタイ」には1回、「マルコ」にも2回見られるんですが、「ルカ」に4回も書かれているということは、やはり、ルカがこの表現の意味する内容に特別な関心を寄せていたということを示していると思います。そして、それらは、それぞれのエピソードの結末部分におけるイエス様のことばとして記されているのです。

<結論>

これら、ルカが記している四つのエピソードに共通して見られる点があります。それは、何らかの理由で当時の社会から疎外されている人たちがその困難を乗り越えてイエス様に近づく。イエス様は彼らが置かれている苦難の中から彼らを解放し、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と告げられる、という点です。ですから、ここでイエス様が語られる「救い」とは、その人にとっての「今、そこにある危機(病気等)」からの解放だけを意味するのではなく、その救われた人がイエス様ご自身と人格的な関係を築くことを意味し、その結果、もたらさられる「救い」とは、肉体的、霊的、そして社会的な側面をも含んだ包括的なものであった、と言えると思います。
そのような「救い」をもたらしたのが、彼ら、彼女らの「信仰」なんです。もちろん、今日の箇所で、イエス様が「わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました」と言われたように、それは究極的にはイエス様の力によって実現したことなんですが、そのような力が働いたのは、それらの人たちのイエス様への熱い信頼があったればこそですよね。あなたにとって「信仰」とは、どのようなものでしょうか?それは、キリスト教の正しい教理・信条を学んで、理解し、信じることでしょうか?もちろん「そんなんどうでもいい」ということではありませんが、その前に、本当に大切なこと、忘れてならないことは、今日の「長血の女」がそうであったように、イエス様の衣の房に触れさえすれば自分は必ず救われる、というイエス様への熱い思い、信頼ではないかと思います。今週も、「インマヌエルの主」イエス様とともに、歩んで行きましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF88KB)

新聖歌

開会祈祷後:220番、メッセージ後:345番

聖書交読

詩編 57篇 1~11節

2021年教会行事

緊急事態宣言発出期間(1月14日から2月7日)の行事は休止します。

#53-2747

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