死からいのちへ

大阪府における緊急事態宣言が6月20日(日)に解除され、7月11日(日)→延長:8月22日(日)までの期間「蔓延防止等重点措置」に移行したことに伴い、7月4日(日)より、礼拝を再開します。千里教会では3密を避けるため、当面の間 2 階の礼拝堂で短時間の礼拝を行うこととします。
体調のすぐれない方、ご不安な方および高齢の方は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。

メッセージ

<ヨハネの福音書 5章19~29節>
メッセージ:信徒:K

開会聖句

この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

<ルカの福音書 15章24節>

メッセージ内容

Youtube動画

今週の礼拝メッセージ動画配信はありません。


 

メッセージ原稿を公開しました。 

<はじめに>  
・先週はちょっとややこしい週でしたね。カレンダーにまさかの変更がありまして、祝日が平日に、平日が祝日になりました。結構、間近になって注意が呼びかけられ、私は1ヶ月ほど前に「ええっ!」と知ったのですが、皆さんは混乱はなかったですか。 今日の聖書箇所は、イエスさまが「自分は何者か」について説明をされているところです。聞いていたユダヤ人は皆、混乱したり、戸惑ったりしました。なぜなら、彼らは幼いときから聖書をしっかり教えられ、専門家でなくても、皆ある程度の共通の神知識を持っていたからです。しかし、イエスさまの説明は、彼らの知識をはるかに超えて、ぶっ飛んでいたのです。どんな説明だったのでしょう。2つのことを言われました。「わたしと父とは1つである。」「わたしはいのちを与える者である。」

<本論>
Ⅰ.イエスと父とは一つである

先月はベテスダの池で、イエスさまが38年も病気だった男性を癒された話でした。その日が安息日だったので、それ以来、イエスさまはユダヤ人たちに「律法破り」と、迫害されるようになりました。彼らの抗議にイエスさまはこう答えられます。

5:17「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」

安息日の癒しが事の発端であることは、他の共観福音書も同じですが、イエスさまの仰ったことは異なります。例えばマルコでは

「安息日は人のために設けられたものです。人が安息日のために造られたのではありません。」(2:27)

と、「人が大切ですよ」とピシッと言われたのですが、ヨハネ福音書では違いました。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」「父とイエスさまが1つである」という一体性を主張されたのです。18節にありますように、それはユダヤ人の目には、「神さまを自分の父と呼び、自分を神と等しくする」振る舞いでしたから、彼らは、これは神を冒.することばだと判断し、殺意をつのらせていくのです。

今日の箇所ですが、

19~20節前半「まことにまことにあなたがたに言います。子は父がしておられることを見て行なう以外には、自分から何も行なうことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。」

ここには、父と子の親密な信頼関係と一体感が強調されています。確かに、旧約聖書には神とイスラエル民族の関係を、人間の父と子のように描いているのですが、両者の関係はそれほど親密さとか一体感を感じさせるものではないようです。彼らは神さまの名前である「ヤーウエ」はもちろん、「神」ということばも避けていたようです。例えば

マタイ5章の山上の垂訓の4説(p6)「悲しむ者は幸いである。その人は慰められるからです。」

神が慰めてくださるのですが、あえて「神」という主語を使わないで受け身を使います。聖書によくある表現です。また、

3節の「天の御国はその人たちのものだから…。」

は、ルカでは

「神の国はあなたがたの…。」(6:20)

と、やはり「神」は使われていません。この続きに「主の祈り」がありますが、ここで、イエスさまは「天にいますわたしたちの父よ」と呼びかけることを弟子たちに教えています。当時の誰とも違って、イエスさまは神さまを信頼できる親しい父として認識し、弟子たちにもそう教えられたのです。私たちが「神さま」とか「父よ」と親しく呼びかけることができるのは、イエスさまが始めて下さったことなのですね。

ここで「イエスキリスト」という呼び方にもふれておきます。日本人には誤解されやすいことばです。イエスが名前で、キリストが名字と思っている人がいます〈私も〉。でも、ある先生がわかりやすく教えてくださいました。 「イエスさまには名字がありません!」 キリストは名字ではなく、称号(肩書き、資格)です。救い主という称号です。メシアも。ですから、「イエスキリスト」とは、「イエスは救い主」、「救い主であるイエス」という意味です。 昔、阪神タイガースに「アリアス」という選手がいました。彼が打席に立った時の応援歌が「メシアfromUSA」という歌で、「メシア、メシア」と連呼する声に私は腹を立てました。「メシアは神さまのことなのに冒.罪!」と憤っていました。でもメシアは人間を指すことばでした。「油注がれた者」と言って、任命の時に「油注ぎ」を受けた王や祭司のようなリーダーのこと。ユダヤ人がイエスさまをメシアと認めなかったのは、彼らの望むタイプではなかったからです。こんなメシアもってのほかでした。

しかし、「わたしは父と等しい者、父と一つである。」というのは、そんなレベルの問題ではなかったのです。小さいときから

「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。」(申6:4)

、目に見えるかたちを作って拝むこと、その名を口にすることを徹底的に禁じられていたのですから、目の前の一人の人間が、「神と等しいもの、父と一つである。」などとは、はなから受けつけることはできなかったと思います。次に、もう一つのことを見ていきましょう。

Ⅱ.イエスは、人を死からいのちに移す権限を委ねられた者である

21~22節「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えるように、子もまた、与えたいと思うものにいのちを与えます。また、父は誰をもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。」

父は子に権限を委ねられた、つまり、イエスはいのちを与える権限を持っているということです。「死人」とありますが、誰のことでしょう?

28節では「墓の中にいる者が、みな、子の声を聞く時が来るのです。」

とありますから、終末のことが頭に浮かびます。一方、

25節「死人が神の声を聞くときが来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」

を読むと、生きている者のことです。これは、神さまの目には、私たちはみな、神から離れた―死んだ状態ということです。そしてさばきの内容が24節です。

「まことにまことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」

今日のタイトルはここから取りました。私たちが普通考えるいのちは肉体の死で終わる命です。日本語の「いのち」は、「息のうち」(息のあるうちー息をしているうち)が省略されたという説があります。しかし、聖書のいのち「永遠のいのち」とは、死んでから始まるというだけではなく、もっと大きく深い、神さまとの関係の中で満ち足りるいのちなのです。親子関係の回復と言っていいでしょうか。さばきには怖い響きがありますが、神さまの願っておられることは、イエスさまと父が味わっておられる親しい関係を、あなたもイエスさまを信じて持って欲しいということなのです。

今日の開会聖句は、ルカの有名な放蕩息子の話からです。

「『この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。」

これは、死んでいたのに生き返った、死からいのちへ移された一人の人間の話です。 あるお父さんに2人の息子がいました。弟息子は強引にお父さんに生前贈与を迫り、それを持って遠い国へ行き、放蕩して、すべてを失います。食べるものにも困るほど落ちぶれたとき、我に返り、悔い改め、せめて父の家で雇ってもらいたいと帰ってきたら、父は両手を挙げて喜び、祝宴を開いてくれました。兄息子は、お父さんの喜びようが面白くなく、宴会に加わろうとしません。これはその時にお父さんが兄に言ったことばです。「死んでいたのが生き返ったのだから喜んでくれ。」 兄息子の不満わかりますね。「甘すぎる!自己責任だ!」と言いたいですが、これはたとえ話です。この親馬鹿の塊のようなお父さんのおかげで、弟は再び、お父さんの元へ戻れました。書いてはいませんが、父親のこの上ない愛に気づき、自分の本当の居場所を見つけ、新しい人生を生きたことでしょう。お気づきのように、このお父さんは神さまのことです。この話は見方を変えると、「放蕩する神」の話と言われています。実は、放蕩ということばには、「浪費する」という意味の他に、「気前のよい、惜しまずに与える」という意味があります。自業自得と非難されてもおかしくない息子の身を案じ、日々心を痛め、首を長くして待ち続け、再び息子として受入れたあり得ないお父さん、気前のよい神さまの話なのです。

<むすび>

最後にその神さまの放蕩ぶりをご一緒に確認しましょう。

ヨハネ3:16「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(p180)

私たちを昨日も今日もこれからも支え守ってくださるのはこんな神さまなのです。私たちが死からいのちに移され、神さまと一緒に生きているという現実を、私たちの大切な喜びとして、この一週間も歩みたいですね。

メッセージ内容のダウンロード(PDF184KB)

新聖歌

開会祈祷後:21番、メッセージ後:474番

聖書交読

詩編 72篇 1~15節

2021年教会行事

7月28日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#53-2774

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