幸いな人

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<イザヤ書 9篇1~7節>
牧師:砂山 智

開会聖句

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」

<ルカの福音書 1章45節>

メッセージ内容

Youtube動画

動画公開をいましばらくお待ちください。

 
 

 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>  
・本書は旧約聖書中、最も多く新約聖書に引用され、そのメッセージは極めて福音的です。さらに、今朝の個所もそうですが、キリストの生涯が預言されているところから、「第五福音書」とも呼ばれます。イザヤの父は本書の最初に記されているようにアモツで、伝承によればアモツはユダの王アマツヤの兄弟とされていますので、イザヤは、やはり1章1節に名前が出てくるウジヤ王(「Ⅱ列」での名前はアザルヤ)の従妹になります。ですので、彼は恐らく宮廷に仕える預言者で、直接、ユダの王たちに忠告や助言を与えることができたと思われます。イザヤは、ウジヤ王が死んだ年、紀元前742年頃ですが、預言者としての召命を受け、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、さらにマナセの時代まで、約50年もの長きに渡って預言者として働きました。その時代のイスラエル、及びユダの国の状況については、「Ⅱ列王記」15~21章に記されています。

<本論>
1.アラム・エフライム戦争
今朝の個所は、クリスマスの頃によく朗読される「ひとりのみどりご」の誕生を告げるメシア預言の一つです。この預言が語られた背景としてお話ししておかなければならない歴史的事件があります。それは、少し前の7章に記されている「アラム・エフライム戦争」です。紀元前735年頃、アラムの王レツィンとイスラエル(エフライム)の王ぺカは、アッシリアに対抗するため、ユダの王アハズに同盟を結ぶようにと外交交渉をしかけてくるのですが、アハズ王はその申し出を断ります。それで、アラムとイスラエルはユダに攻め寄せて来るのです。当時、アラムとイスラエル、そしてユダもそうですが、そんな小さな国々は、アッシリアという大帝国の脅威に戦々恐々としていました。アッシリアには、周辺の国々を自分の支配下に置き、南のエジプトに対抗しようという思惑があったからです。しかし、先程も申し上げましたように、アハズはアラムとエフライムからの同盟の申し出を断ります。それは7章の後半だけを見ると、アハズがイザヤから告げられた神のことば、預言に従ったから。つまり、アハズが主への信仰に堅く立ったからのようにも読めますが、実はそうではなかったんです。そもそもアハズという王様は、「Ⅱ列王」16章2~4節を見ると、ろくでもない王だったみたいですね。ですから、この危機に際して、彼が打った手というのも、ろくでもない悪手(あくしゅ)だったのです。16章7節からご覧ください。

『アハズは使者たちをアッシリアの王ティグラト・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から救ってください。」アハズが主の宮と王宮の宝物倉にある銀と金を取り出して、それを贈り物としてアッシリアの王に送ったので、アッシリアの王は彼の願いを聞き入れた。アッシリアの王はダマスコに攻め上り、これを取り、その住民をキルへ捕らえ移した。彼はレツィンを殺した』(Ⅱ列16:7~9)。

アッシリアは、今、お読みしたようにアラムを滅ぼし、それからしばらく後の紀元前721年には、イスラエル(エフライム)をも滅ぼしてしまいます。それは17章6節以降に書かれてある通りです。

2.ユダが頼ったのは

さて、「イザヤ」に戻りますが、今朝の9章の前の8章ですが、これは、今、お話ししたアラム・エフライム戦争の後になされた預言と解釈されています。イザヤはここで、ユダの人々に、「あなたがたは神にのみ頼っていきなさい。アッシリアが攻めて来るから」と警告を発していますが、アハズ王を始めとして、ユダの人々は全く聞こうとはしませんでした。それどころか、19節以降を見ると、この国家存亡とも言える危機の中で彼らが頼ったのは、霊媒や口寄せ、そういう占いの類だったんです。「日々のみことば」の執筆者の方は、このことについて

「現代に生きる私たちにとっても、これは無関係ではありません。神のことばから私たちを引き離すものは、日々の忙しさや、一見正しそうに思える常識など、気づかないほど自然に生活に溶け込んでいます」

と書いておられました。今の時代にはハッキリとした迫害はないかもしれませんが、何気ない日常の中に、私たちの信仰を危機に陥れる罠が潜んでいる。確かにそんな気がします。私たちが気づかないほど自然に生活に溶け込んでいるもの。それは今だったら、AI(人工知能)なんかそうかもしれません。なんでもAIに頼るというか、聞くような時代になりましたが、第一生命の昨年の「サラリーマン川柳」にもAIに関するものがいくつかありました。「AIに 相談してから 人に聞く」「AIか?志望動機が 皆同じ」「AIの 頑張ったね!に 涙する」等々。ある方は、AIについて、答えのある問題に対しては役に立つかもしれないけれども、答えのない問題。例えば、私たち人間の価値観とか人生観に関わるような問題ということかと思いますが、そんな問題に対しては役に立たない、と書いておられましたが、AIは、あくまでも、人間が使いこなす便利なツール(道具)ととらえるべきだと思います。

3.万軍の主の熱心が

そして、今朝の9章ですが、8章の終わりで語られた絶望の預言から一転して、希望の預言が語られます。このことからも、聖書は、決して、絶望や裁き、滅びを告げて終わるものではなく、赦しや望み、平安をもって終わるものだということを改めて覚えさせられます。そして、私たちの究極の希望、それはイエス・キリストです。

1節の『ゼブルンの地とナフタリの地』

は、十二部族のゼブルン族とナフタリ族に与えられたガリラヤ湖北西の土地のことですが、紀元前733~732年にかけてアッシリアに占領され、その領土に編入されてしまいます。しかし、後には、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。イエス様がご自分の故郷ガリラヤから宣教を始められたということです。続く2節では

『闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る』

と預言されています。新約の福音書の著者は、イエス様がいよいよその公生涯を、宣教を始められるその時に、このイザヤの預言を引用しています。そして3節で預言されていることは、自分たちの努力や力で何事かを成し遂げて喜ぶのではなく、神がしてくださるがゆえに、神の御前で喜ぶということであり、

4節の『ミディアンの日になされたように』

とは、「士師」7章にある、士師ギデオンがミディアン人を打ち殺したようにということですが、それはギデオンではなく神がミディアン人を打たれたのであって、決してイスラエル人がミディアン人に勝ったわけではなかったということを表しています。そして、今朝のテキストの最後5~7節ですが、この預言は、言わば可能性ゼロ。人間的に見れば、可能性がどこにも見出せないような絶望的な状況の中で、それでもなおイザヤが語った希望の預言です。その締め括りは次のようなことばです。

『今よりとこしえまで、万軍の主の熱心がこれを成し遂げる』(イザヤ9:7b)。

<結論>

そのイザヤの時代から約700年後に、イエス様は預言の通りに私たちの世界に来てくださいました。今朝の開会聖句は、マリアが御使いガブリエルから受胎告知を受け、親戚のエリサベツを訪ねた時に、エリサベツが聖霊に満たされて語った祝福のことばです。エリサベツも、先週のK姉のメッセージにあったサライ(サラ)と同じように不妊の女でした。しかし、サライも、エリサベツも、御使いが告げた通りに約束の子が与えられたのです。そして、それぞれの物語を読むとよく分かりますが、それは、その二人の信仰の力によるものではなく、ただ、神からの一方的な恵みによるものでした。

『主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです』(ルカ1:45)。

先月、「幸いなことよ」いうタイトルで「詩篇」第1編からお話ししました。この「幸い」と訳されているヘブル語「アシュレー」、ギリシア語「マカリオイ」は、直訳すれば「神に祝福されている」という意味だと。いつも、みことばが信じられない。すぐに、とても実現しないだろう、と思ってしまうのが自分なんですが、「主よ。そんな私を憐れんでくださり、みことばは必ず実現すると信じる信仰をお与えてください」と祈りつつ、今朝のメッセージを閉じたいと思います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF108KB)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌9番、メッセージ後:新聖歌98番

聖書交読

詩編26篇 1~12節

2026年教会行事

8月5日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時

#58-3036

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